「日本社會論」
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時事新報に掲載された「日本社會論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本社會論
過日米國博士ドクトルシモンズ氏の手に成りたる英文日本文明論を譯して貴社に投したるに直に掲載を得て滿足に堪へず今又同氏の社會論一篇を見るに議論周到我國情に適切なるもの多し依て譯して貴社に投して社會改良論者の參考に供せんとす掲載を得ば幸甚 譯 者 誌
日本社會論 伊 吹 雷 太 譯
今日日本の天地に瀰滿し甚だ強大急劇の速力を以て一般に流行する各種の改革變化は學者社會の一大問題にして或る論者は之を悦び此等の變革は都て日本人民將來の幸福繁榮の爲め甚だ必要なりと贊成するものあれば或る學者は之に反して曰く否否此變革中に就き或る事項の如きは啻に必要便益なきのみか國家人民眞成の幸福を害するものなりとて駁論するもあり
抑も日本國人が幾百千歳の間その洞門を鎖して武陵桃花の春に鼾睡の最中一朝浦賀の砲聲に夢を破られ倉皇國を開て交を歐米諸國に求め從來の封建制度を轉覆して王政維新の大業を仕遂げたるは實に世界の歴史にも例なき政治上社會上の變動なれば此際日本人は何を爲すべきか、何を爲す可らざるか、如何なる風俗習慣は保存すべきか、如何なる歐米の事物は模倣す可きかと判知明言すること甚だ困難にして一方には常に事物の改良に熱し腦中一幅の空想を畫きて前途の望洋洋なる自由黨(Liberal)或は日本近時の有樣に適切なる語を用ゆれば即ち改進黨(Progressive)と他の一方には能く事物の表裏兩面を吟味して其物の利害得失を比較し却て其變通に躊躇する所の保守黨と此兩黨の間に議論を異にするのみならず雙方自家の議論にも一定の見なくして朝變暮改秋天の有樣なるは日本の事情に於て然らしむる所にして又止むを得ざる次第なる可し
今余は此各種の變革は日本の爲めに果して如何なる結果を奏す可きやを論ずるに當り先づ左の二項に大別せんとす
第一項 實質的の變化即ち鐵道の築造、電線の架設、汽船の構造等の如し
第二項 社會上の變化即ち一國の風俗、一家の慣習、衣服飮食居住等の如し
而して此の編に於ては社會學の範圍に屬する第二項の變革に付て論議せんと欲するなり
東洋諸國が國を開て西洋各國と通商貿易を始めし以來其事物にて歐米人を益せしもの素より尠からずと雖も就中日本支那に成立現存する所の家族の仕組(Family organization)は社會學を講究する學者に甚だ大ななる利益を與へたり余は此等の社會學士が其學問の主義定説として一般に承認する諸説を掲けて議論の基礎となさんとす
第一義 家族は一國社會の基礎なる事
第二義 繁榮幸福の社會は必ず繁榮幸福の家族より成立するを常とする事
第三義 家族は各國殊に東洋諸國文明の分子基礎なる事
第四義 一國政府の基礎は其國人民の風俗習慣に存し其風俗習慣の良否は家族の仕組如何に存し而して其家族の仕組の如何は主として其家母に存する事
第四義として掲げたるものには支那有名の古學者ローチュー(Luachau)の書に於て發見したるものなり西洋社會學の書に於て之を引用せしものを見ずと雖も其根本は全く此定義と一致して違はざるが故にローチューの言は千古の確論にして社會學の一新主義とするの價あるを信するなり而して日本人が自國固有の風習殊に一國文明の基礎分子たる家族の仕組をも破壞し去て歐米の風習を模倣せんとするの今日、社會學理的より深切なる考案を下して之を講究するは甚だ大切なることにて學者の本分决して等閑視す可らざるなり
通常の外國人にても久しく日本に滯在して其事情に能く親炙せるものは日本家族の仕組を見て歐米家族の仕組よりも遙に立勝りたる處あるに心付くほどなるに其主人たる日本人が歐米各國の風俗習慣に心醉して是非善惡を識別するの明を失い自國固有のものとあれば何にまれ破壞放棄し去るの狂態は恰も數年前日本美術の深奧靈妙なるところを畫き出せる眞に貴重すべき書畫類を無用の故紙として屑屋に賣却したるの奇談と同一轍なり迚西洋の識者は竊に之を冷笑せざるものなし
日本人は實に夢想にも知らざることならんなれども實を申せば歐米各國の家族の仕組は彼の社會に行はるる諸の仕組の中にて最も宜しからず人事の最も不完全なる部分なりとして憂る所のものなり之に反して日本の家族の立勝りたる部分を掲れば先づ一家の父母が其子孫の言行を教訓し又親類縁者が相互に其行爲を規制して一家一族の平和秩序を維持する慣行より其子女が唯に幼稚の時のみならず成年に至りても常に父母の命を重んじて恭順なるが如きは實に日本特有の美事なりとて西洋人の稱賛止まざる所なり
凡そ一家の子女が其父母に對して恭順なるは甚だ大切なる事にして家内の秩序も之に依て整理し平和も之に依て得らる可きものなれば素より一家家政の基礎なること余が言を待たずして明なる可し左れば此恭順の美徳を微弱にするものあらば其物は即ち一家の秩序を破り平和を害するの禍源たることも亦疑なかる可し然るに第二の定義として延べたる通り凡そ繁榮幸福の社會は必ず繁榮幸福の家族より成立するものなれば其家族の安寧幸福を害する不恭順の行を導く其物は即ち亦一國社會の安寧幸福を害するものなりと云はざる可らざるなり
余は前に社會の定義とする價ありとして掲げたる第四義に遷りて是れより婦人の性質權勢地位に論及せんと欲す (以下次號)