「歐洲列國の大勢(前號の續き)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「歐洲列國の大勢(前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

佛蘭西の攻略

日耳曼墺地利の兩國は今日决して戰爭を好むものにあらず英國も數十年以前にありては大陸の戰爭に關係したれども近來に至りては國民專ら平和を希望し非常の變故あるに非ざれば干戈を動さざるの迹亦た明白なり伊太利の建國も維新にして百事草創自ら守るに遑あらざる今日なれば此國より戰端の開くることあらんとも思はれず唯今後將來に恐るべきは佛露二國の政略にして其内の一邦兵を動す時は歐洲大陸變じて修羅塲となるなきを期すべからず露國の事は暫く後に讓り我輩佛國の擧動を推測するに其國民は目下一般平和を希望するに相違なけれども政治家中暗に戰爭を好んで己れの功名を貪らんとするの野心なきや否や例へばブーランゼイ將軍の如きは外戰の機會に乘じて武功を輝かすこと容易ならんなれば爲めに外國に事端を開きて干戈を用ゆるの虞りなしとも信ず可らず然れ共熟熟佛國の内情を顧みるに自ら好んで戰亂の危險を冒さざるは勿論、萬萬露の一國が英國若くは墺國を敵にして開戰を布告することありとするも佛國は成丈け逡巡して戰爭に手出しせざるの工風を運らすならん試に見るべし今日佛國の政治家中開戰主義の者は果して幾名ありや大統領グレヴィー氏は平和温順の人なりフレシネー氏は思慮謹愼の政治家なり其他スピユーエ氏が日耳曼に好意を表する、タレマンソー氏が英國に信誼を盡す、孰れも持重の政治家にして輕輕開戰の政略を賛成する人にあらずフ エリー氏は之に比して活溌なれども東京事件より引續き支那と戰爭を釀して佛國に災ひしたればこれに懲りて今はフレシネーにも彷彿たる謹愼家と爲りたり要するに佛國現在の政治家中勢力ある者は皆殆んど平和主義を執らざるなく此等の諸人が代る代る内閣に立つの其間は佛國の主唱に由て歐洲に戰端を開くの氣遣ひある可らず唯油斷す可らざるはブーランゼィ將軍の擧動にして特に其人望の高き前後殆んど比類なく千八百三十年佛國革命の際のラフエート氏の人望若くは又千八百五十年ルイ ナポレオン の大統領就職を除きては斯程に民心を收めたる事例なくガンベツタの生涯と雖ども今日ブーランゼイ將軍の威望には及ばざること遠しと云へり又將軍が陸軍大臣に在るの日には頗る其材幹を現はし特に士卒に對しては信切鄭寧武將の氣風を備へその威望亦極めて熾んなりし又獨り此れのみならず撰擧民の名望も非常にして當時佛國に人望第一と云はれたるドレセツプ氏といへども恐くは將軍に及ばざるべく即ちルイ ナポレオン の故智を踏んで其向背を人民直接の撰擧に尋ねたらば多數の賛成を得て佛國兵馬の全權を掌握するに至らんこと左まで難事にあらざるが如くに見ゆれ共然れ共是れ唯一方の所見にして我輩廣く全局の形勢より推察するに將軍今日の地位は决して歐洲の平和を破るに足らざるを信ずるものなり

將軍は佛國内に於て斯く人望の盛んなるに拘はらず歐洲列國の忌憚を受くること曩きのガンベツタ氏に及ばず又實際の人物も恐くはガンベツタ氏ほどに値打せざることならん然るに獨り日耳曼に於ては之を畏るる甚しく、將軍にして佛國陸軍の權を握る間は何時にても戰端の破裂す可きが如くに言囃して人心洶洶の趣ありしは非常なる誤想にして其實將軍の在職中一度として漫然外戰の計を運らしたる事なきのみならず植民政略にも反對して無用の兵を動さざるを務めたるは明白の事實なり故に如何なる點より之を察するも將軍一身の勢力を以て今日佛國が歐洲に對する現在の地位を變じて平和を破らんとするの形迹あるを發見す可らず又國内政黨の有樣を顧みるに謂ゆる右黨即ち保守黨なるものは四分五裂の勢にて同じ王政黨の其中にも神權ボナパルト黨あり民權ボナパルト黨あり或はレジチミスト派或はオルリヤン派若くは立憲王政派ありて毫も聯絡の通ぜざるが故に今の共和政府に向ては反對の力なく且つ其表面は王政黨と自稱すと雖ども内心は共和政體に賛成して敢て王家の再興を計らんとする念慮もなければ現在の共和政府は甚だ安全の地位に居るものと評して可なり或は他の局面より社會主義なるものが其勢を逞うして現政府を顛覆せんとするの企なきにしも非ざるべしと雖ども是れも差當りの危險に非ざれば現今の共和政府は苟も平和の續く限りに永存するものとして相違なかる可し此等の事情より考ふれば佛國は容易に干戈を動し得ざるものにして與論の多數亦悦んで共和政府を奉戴するの今日ブーランゼイ將軍の開戰主義决して全勝を占むるの憂ひなかる可し唯將軍の人望高き、早晩大統領に撰ばれて兵馬の全權をも掌握するの機會あるやに似たれ共是迚も覺束なしと思はるるは佛國の大統領は國民の直接撰擧に由るに非ず上下両院相會してこれを撰むに在ればなり盖し今のブーランゼイ將軍の人望は千八百五十年のルイ ナポレオン に均しきものにて社會下等の多數民には評判甚だ宜しけれども次第に上流の人民に至れば之に望を屬する者次第に少なく就中國會議員の如きは都て反對者のみなりと云ふ可きほどの次第なれば結局平和の世界にては將軍も其政權を握るに方便なきこと數の明なるものなり且つ一歩を進めて論ずるに佛國は古來流行盛衰の甚しき土地にして今日の人望非常なりと思ひの外明日に至りては俄然其人の名さへ忘却するは毎度の例なり共和政治の世の中に居て王政黨の人物に聲聞なきは怪むに足らず共和主義の政治家にして有爲活溌の人と雖も少しく時期に後るる時は殆んど世外の徒となりて復た顧る者なきを常とす例へばレオン セイ 氏の如き一時の勢力全國の威望を繋ぐ次第なりしに今日に至りては何人も其名を言ふ者なきに非ずやブーランゼイ將軍と雖ども之に異ならず向後數年佛人復た又將軍の名を口にせざるに至るの時あること疑ある可らず獨りこれのみならず佛國現在の關係は殆んど獨歩孤立にして歐洲の諸強國中露西亞を除けば一として佛國に與みするものなく又露國の應援と雖ども全くは虚勢にして唯暗に之を假て自から他の諸列國を威嚇するに過ぎざるものなり專制獨斷の露國政府が共和民主の佛國と眞實の利害を同うせんこと六ケ敷き次第にして佛國亦この趣を悟らざるに非ざれば輕輕戰端を開て笑を列國に取るの拙策を學ばざるは必然なり兎角する内ブーランゼイ將軍の名望も地に墜ちて平和主義勝利を制すべしとの説决して無稽にはあらざる可し         (未完)