「歐洲列國の大勢 (前號の續き)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「歐洲列國の大勢 (前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

露國の政略

露國が歐洲列國に對するの關係を説くに先ちて我輩の知るを要するものは其兵力なり露國政府は財政の困難非常にして國債の額亦甚だ多し此點より評すれば其基礎不安全なるに似たれ共また世界中の一大國なり土地廣く人口多く加るに專制の威令を以て頻に兵備を擴張するの今日なれば露國現在の陸軍は日耳曼佛蘭西に比して一歩を讓らざるのみか其數の大なること歐洲中之に及ぶものなかる可し又其軍紀號令は極めて整頓したる者にて一朝召聚の命を下せば四百萬の大軍は瞬間にして辨ずべく更に之を増加すれば六百萬の陸軍露國の干城ならざるなし人或は之を虚なりとして疑ふものもあらんかなれ共實は千八百七十八年東歐事件の爭ひ以來鋭意兵備を擴張して今日は獨り其兵數の多きに止まらず砲兵隊の精鋭は少しも佛日の二國に劣るなく騎兵隊は又これよりも多數にして佛日聯合若しくは日墺同盟の騎兵と雖も衆寡敵せざるは算數に於て證す可し又現今の常備軍は凡そ八十四萬人なれ共彼のコサツク兵なるものは兵役を以て終身の業とする勇兵にして其數五萬人、彼此合して八十九萬人、日墺兩國の常備軍を合はすと雖も尚ほ之に及ぶ可らず而して一旦事あれば前記四百萬の大兵咄嗟の間に聚まることなれば之に敵すべき日耳曼の兵は二百萬人墺地利は百二十五萬人相合はせても露軍より少きこと七十五萬人况や露國人は驍勇忍耐國權の爲めまた國教の爲め身命を捨てて顧みざるの風なるをや之を敵にして畏れざるを欲すと雖も得可らざるなり尚ほ其上にも露國の人民は外國の事情を知ること甚だ尠く、知るものは唯僅かに日耳曼國民の名なるのみなり故に露國人の多數には英人若くは佛人等の區別なく外國人と云へば必ず日耳曼人といふ如くに誤解して特に之を憎むこと甚しく早晩開戰して日耳曼を亡ぼさざれば已まざるの覺悟ならざるはなし唯政府上流の人若くは外國の形勢に通ずる者は斯くは日耳曼を疾まずして却て右の物議を制止し在廷百官の感覺も日耳曼より寧ろ墺地利に反對の趣なれども今後將來露日事あるの曉に當局者は其人民が日耳曼を疾むの此心に依頼して大に利する所ある可し唯歴史上の由緒より之を見るに露日墺の三國は古來其建國の利害を同うして謂ゆる神聖同盟なる者の仲間なれば今日と雖も露國が獨り日耳曼を敵にして戰端を開くべき筈なけれ共如何せん東歐事件に關しては墺地利と利害を殊にして露國より遂に之を攻撃せざる可らざるの塲合もあらんとすれば其際日耳曼は輔車の關係より墺國を助くること要用にして假令へ神聖同盟の舊縁ありとも露國とは敵味方に分れざる可らず斯る情實は露國政府の知悉する所にして露日連衡共に大に歐洲に爭ふの策は結局その望み少なきものと云ふ可し去迚佛國と眞實の利害を與にして斷然日耳曼を敵にするも如何なれば唯何んとなく佛國の名を後ろに構へて陽に同盟の虚勢を張ること露國政略の眞相なる可し

露國が土耳格を窺ふや久し露領亞細亞の裏手より南侵して土京君斯坦丁堡を占領せんとの計畫は歐洲列國就中英國の最も恐るる所にして此點よりは墺地利を助けて露國の侵掠に抵抗すること大切なりと雖とも是れは前にも申せし如く英國より墺國に援兵を送るまでには早くして尚ほ一箇月を費すべく其間に露國の兵は内地より墺國に進入して見事に全勝を占むるの餘裕ある可ければ英國の援兵は恃むに足らざるなり又或は伊太利の聯合あらば同盟艦隊を艤裝してK海に激烈の攻撃を試むるの望みある可きに似たれ共K海なりバルチツク海なり事あるの日に敵の攻撃を受けん事は露國豫ての覺悟にして沿岸の砲臺にも有らゆる凖備を盡したれば英伊聯合の艦隊も所詮其功を奏すること能はざる可し唯東洋の極端浦鹽斯徳の海港を砲撃して之を窘むるの一策あるのみなれ共此れにては左まで露國の妨害と爲る可らず盖し海港塲を荒されたるの損失は左る事ならんと雖ども戰略上には毫も關係なく露國は依然戰爭を持久し得るに疑ひなきなり然るに之と同時に英國は印度に備へ阿富汗を守りて露軍の攻撃を遮ぎること大切なれば其兵力これに制止せられて專ら進撃の地位に立つこと叶はざるも明白なり又露國が亞細亞の裏手より彌彌土京に侵入するに當りては地中海の要所を扼し英國に必要なる蘇西運河も事あるの日には獨り其用を爲さざるのみか陸上の通路まで萬一露國に絶たれたらば英國が印度若くは支那に通ずるの航路亦喜望峰に由らざる可らず實に英國の憂ふる所にして即ち土耳格を助くるは併せて英國自身を保護するの道理と知る可し然るに世の論者中には露國が英領印度の境界を犯さざるを約し又埃及事件に英國を助けて公然其占領を認許するの塲合には英國は君斯坦丁堡を露國に渡し以て英露の同盟を締結すること得策なりと言ふものあり彼のランドルフチヤウチル候の如きその意見果して何れに在るやを知らずといへども候は保守黨の列に在りながら故ビーコンスフイルド候の政策に反對して千八百七十八年土耳格帝國の組織を一新せんとしたる伯林條約さへ不滿意とする所なれば或は候の想像中同く英露の同盟を全ふして平和を保たんとするの色なきを期す可らず夫は兎も角も現今英國撰擧民の大數は日増に戰爭を恐るるものにて特に近來は有力の政治家も亦この考へあるに似たれ共土耳格を露國の手に渡して果して禍害なかるべきや方今英國が小亞細亞地方に握る所の商權は殆んど專有の姿にして北部製造地方の利害これに關する淺少ならざるに擧て之を露人に與ふるの政略は人民の望を繋ぐべしとも思はれざるなり要するに英露の兩國が利害の關係を殊にするものは獨り土耳格事件に止まらず中央亞細亞阿富汗より延て印度緬甸に至るまで一帶競爭の土地ならざるはなく東洋の極端と雖ども英國商賣の利害は殆んど露國と相容れざるの勢なれば萬一の事あるに當りては英國は露國よりサガレン嶋を分畧して之を日本に與へ日英の同盟を結ぶの策要用ならざるに非ずと雖ども(此處もヂルク氏自から言ふものと知る可し)尚ほ肝腎なるは支那との同盟なり幸ひ支那も英國と同樣露國とは全く反對の地位に立つものなれば同盟の策行れ難きにも非ざるなり斯る次第なりとすれば英露兩國の間に差當り此れと云ふ戰爭破裂の原因は存せざれ共全體の利害抑も抑も既に根底を相違にするの處あれば露國將來の政略は必ず英國と衝突の恐れある可きことなり       (未完)