「日本蠶絲業論(前號の續き)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本蠶絲業論(前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

養蠶ますます盛なれば製絲地方を

移轉せざる可らず

蠶絲業に就き農工分業の必要を説くの序に敢て一言せんと欲するものは我製絲地方の事なり今日の處にては養蠶地方即ち製絲地方にして西隣の養蠶家が繭を作れば東隣の製絲家は其繭を買ふて之を絲に製するの趣向にして以て今の製絲地方を組成したるものなれども我輩今の製絲地方たる長野山梨等の地位を察するに今後永く製絲業に適するの塲所なりとは思はれず此等の地方は第一山路險惡にして生繭の運送に便ならず人口割合に少なくして賃銀割合に低からず森林漸く伐り盡さんとして新に石炭坑の發見もあらざれば追ては燃材を他縣に仰がざる可らず此際少しく便利なるものは清水の供給自由なると繭の仕入塲に接近するとの二つなれども近來追追製絲塲の増加するに隨ひ數十里外に踏み出して繭を仕入れざる可らざるの有樣を呈したるのみならず今後養蠶の全國に發起するに當りて製絲所を此等の地方に置くときは各地方の繭を買ひ集てワザワザ之を山間幽谷に運搬せざる可らざるが故に今の各地方の製絲所は遠からず其位地の不便を感ずるの日ある可し凡そ物品を製するの地は必ずしも其原料を産するの地に在るを要せず英のマンチエスターは木綿を産するの地に非ずして有名なる綿布製造地方と爲り獨逸は他國の銕を輸入して鑄砲製艦天下に獨歩するの國と爲れり左れば今後我國にて追追養蠶業の進歩するに隨ひ今の蠶絲地方は次第に衰へ或は海港都城の地に接して水清く且つ運搬に便利なる土地が更に適當なる製絲地方たるに至る可きか此事未來に屬すと雖ども製絲家の今より心得べき所の者なれば序に爰に一言し置くこと然り

製絲家の團結を謀らざる可らず

我國にては養蠶製絲未だ其分業の緒に就かざるが爲に蠶絲業上種種の弊害を存して大に其發達を妨ぐるの實ありとの次第は既に前號に陳述せしが今其弊害の最も甚だしきものは農家各各小製絲家と爲りて銘銘各異の絲を製するが故に一旦海外需要者の注文あるに臨んで其都度同種類の荷物を調達する能はざるの一事なり抑も海外諸國の商賣は其規模甚大にして荷物の取引高甚多く今生絲に就て云はんに彼の織物大問屋にて何か時好の品物を〓出さんとする折には一手にて巨額の原料を買入るること度度にして其需要に應ぜんとするには注文通り同種類の生絲を取り揃へざる可らず現に伊太利の製絲元抔にては佛國里■(「昴」の左下が「工」)府の生絲問屋より其種の生絲製造の依頼を受くる度に何百梱にても之を調達して其需要に應ずるを常とする由なれども我國の生絲は大製絲所の一手製造に成らざるが故に坐繰絲などに至りては個個其品質を異にし又其細大を齊ふせざるが如き始末にして同種類同商標の品を纏めんとするも迚も其望みを達すること能はず斯くて小製絲家の處處に分立して銘銘勝手の絲を製出するに任せ之を集合團結して同種類の品物を取揃ふることを勉めざるに於ては我國の生絲は海外諸國規模の廣大なる市塲の商品たるに適せずして永く其聲價を博すること能はず蠶絲業の進歩遂に期す可らざるに至らん我輩の痛惜に堪へざる所なり

左れば目下我蠶絲業上の急務は内地の製絲家を集合團結して同種類同商標の品を造らしめ手廣き海外市塲の需要に應じて何百梱の注文に逢ふも直に之を調達するやうの方法を立つるに在るのみ即ち製絲家團結の策にして其策固より種種なる可しと雖ども試に一法を擧げんに我政府にては曩に蠶絲業組合規則を設け生絲濫製粗造の弊を防ぐが爲に各地方に蠶絲業組合事務所を置きて各製絲家の生絲を■(てへん+「檢」の右側)査せしめ其手數料として一梱に付金五十錢を徴■(しょうへん(将の左側)+「又」)する由なれども此生絲■(てへん+「檢」の右側)査人たるものは月に五六圓の俸給を以て雇入れたるものにして充分の鑑定力を有するものとてはなく製絲地方到る處として其■(てへん+「檢」の右側)査の無効なるを説かざるものなし盖し多年製絲に從事し一廉の製絲所を有して其生絲に自家の商標を貼付する位の人人は名譽の爲め利益の爲め成る可く良好の絲を製せんとして日夜經營苦心するものにして生絲■(てへん+「檢」の右側)査人などの注意を待て始めて其製絲を丁寧にするものに非ず左れば此等の人人の生絲を■(てへん+「檢」の右側)査するが爲めに一梱に付て五十錢なり六十錢なりの手數料を取り剩さへ其煩勞を加ふるが如きは實に氣の毒の至りなれども目下我製絲地方の實際を見るに自から其製絲所を有せず或は農家を巡廻し或は競賣塲を奔走して其手製の絲を買ひ五斤三斤集め來りて之を荷造りするもの少なからず此種の生絲荷物中には往往濫製の絲を混じ外國商人の信用を損することなきに非ざれば此等の荷物に限りては嚴重に之を■(てへん+「檢」の右側)査し且つ其手數料の割合を今日に幾倍して暗に嚴止税の性質を帶ばしむること肝要ならん斯くて一個確實の製絲所と認定したるものは其生絲を■(てへん+「檢」の右側)査することを廢し唯彼の集め物の絲荷のみを■(てへん+「檢」の右側)査して嚴重の手數料を課するときは製絲家は各各團結して無■(てへん+「檢」の右側)査製絲所たるの位地を得んと欲し其製絲も亦自から同種類の品物たるに至る可きなり此他尚實際を調べたらば製絲所團結の策も多からんと雖ども我輩は今其一端を擧げて敢て其向きの人の注意を促さんと欲するなり