「日本支那の貿易」
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時事新報に掲載された「日本支那の貿易」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本支那の貿易
日本の海外貿易は年次盛大に赴くものにして今後將來進むあるも退くなきは理に於て明白なれ共就中其額の近年著しく増加したるは支那の商賣即ち是なり試に明治十年より昨十九年に至るまで既往十箇年の成迹に照らすに
日本より輸出 支那より輸入 合 計
圓 圓 圓
明治十年 四、一八五、九四二 四、五七六、二〇三 八、七六二、一四五
十一年 六、二五九、一六四 四、七四四、四七二 一一、〇〇三、六三六
十二年 五、四二六、四四二 五、七四九、七二五 一一、一七六、一六七
十三年 五、四九九、九九八 六、八四二、七七三 一一、三四二、七七一
十四年 五、五八六、一六四 五、三七五、二六二 一〇、九六一、四二六
十五年 五、三〇一、三九九 六、三五〇、三八一 一一、六五一、七八〇
十六年 五、四八二、九三六 五、四二五、四四〇 一〇、九〇八、三七六
十七年 六、〇四五、三五七 六、五一七、七四二 一二、五六三、〇九九
十八年 七、六五五、四六八 五、七六三、〇五〇 一三、四一八、五一八
十九年 九、〇七九、二一三 七、一〇六、五六四 一六、一八五、七七七
右の統計に據るに既往十箇年の其間年年の昇降なきに非ずと雖も全體に比例すれば日支兩國の貿易は撓みなく進歩し來りたる者にして明治十九年を明治十年に較ぶれば其商賣の額増加したること九割強、殆んど倍數に達したりと云ふを得べし且つ此進歩は獨り昨年一昨年を限りたるに非ずして近年支那商賣の一般に景氣好きは世人の許す所なり本年の貿易は如何なるべきや未だ年度を終はらざれば豫め之を明言する能はずと雖も昨年に較べて増すことあるも減するなきは必ず事實に外れざるを信ずるなり
支那は廣大の國なれ共其海岸少なくして水産漁業の貨物欠乏なるが故に今後内地の通商倍倍開くるに從て日本の輸出品は次第に増加し該帝國四億の人口が海産物の需要に飽くに至るまでには尚ほ幾年を費すことか殆んど際涯を見ざることならんなれば日本國が其得意を失はずして國産を賣込むの利益は實に莫大なる可し即ち支那貿易の等閑にす可らざる所以なれ共爰に其路に横はるの困難は内地通商の不便に在るものの如し總て商賣取引の用には前以て豫算を立つること大切の次第にして例へば今某の物品を外國に輸出するにも元價運賃より海關税を仕拂ひ何程の利益を見て何程の相塲に賣込むと云ふ凡そ其邊の見通し就かずしては實地商賣に取懸られ得る者にあらず然るに支那の貿易たるや海關税は他の國々に等しく通商條約に因て其割合を定めたる者なりと雖も獨り不定なるは内地の通行税即ち支那に於て釐金税と稱する一種變則の課税にして地方政府の適宜に徴課し其割合不同なるものあり且つ一省を出でて一省に入るの都度この税を課せられて甚しきは同省の内數箇所の關門にて度度これを拂ふの不都合あるを以て外國品がいよいよ内地消費者の手に落るまでには時として十數度の課税を蒙むるもありと云へり隨て其物品の不廉ならざるを得ざるは賣弘めに不都合なること論を俟たずと雖も間接に其税を負擔する者は消費者なるが故に關税釐金税とも其割合の重きは尚ほ忍ぶ可し唯忍ぶ可らざるは其釐金税の税率と其課せらる可き度數と兩樣共に變動不定にして豫め目算を立るに由なきの一事なり此弊害は支那貿易に從事する西洋商人の昔より〓しむ所にして先年雲南にて英國宣教師マカレー〓〓〓其〓英國より掛合に及びて其償金の談判より遂に〓〓税改正の事と爲り半口税と云へる税則を定め支那〓〓に賣込むべき物品に對しては最初輸入したる海〓に〓〓の〓税を納むるの外に尚ほ其高の半價を支拂ひ此手續を經過したる物品なれば内地幾多の關門をも差支なく無税にて通行するを得るの約と爲りたり即ち海關税率を五割増加したる其代りに面倒なる内地釐金税の負擔を免れたる者にして輸入商人もこれがために前途の見通しを定むること難からず外國貨物の内地に入るものは恰も其通行の門戸を廣くしたるの姿にして販路次第に開け取引の高次第に増加するの勢を成したりと云ふ左れば我日本と支那との條約は自から西洋諸國人の支那に於けるものと異なる所もあれども通商の自由は日支雙方の利益なれば早晩わが日本人も彼の釐金税の束縛を免かれて内地通商の自由便利を得べきは復た疑を容れざる所なり
次に我輩が支那貿易に從事せんとする日本商人に望む所は主として彼國商賣の事情を探ぐり其實地を明らめて從來の如く漫然方向を誤まることなからしめんとするに在り支那の外國貿易は一種變則なるものにして文明流の規則商理を推して輸贏を决せんとするも却て彼の變則中に包羅せられて進退自由ならざるの事情なきに非ず日本支那貿易の高は僅僅十年内外にして前記の通り殆んど二倍に達したるにも拘はらず直接に手を下したる日本商人に失敗多きは何ぞや彼の國の實况を知らず彼國人の商風を知らず些少の資本を恃みにして強ひて文明流の信用を利せんとし却て實地に苦しみたるものより外ならず然るに支那の地たるや日本を距ること至近にして對岸の往來三五日程、我商人が彼國に渡來して躬から其實地を探ぐるにも或は又人を派して商業を習はしむるにも其費用とて至て廉價なる可ければ有志の人人は銘銘此用意ありて然る可きことならんに今日に至るまで其風聞さへ寥寥たるは之を日本商家の怠慢と云ふて可なり或人の説に今日の有樣にて日本人が遙遙海を超えて支那まで出懸往くも其效能甚だ覺束なし函館なり横濱なり日本國の開港塲に居ながら日本の物品を買出して之を本國に輸送するものは十中の九皆支那人なり日本人は門前の商敵を防ぐに是れ遑あらざるに何の餘裕あれば外國に踏出す可けんや無用の沙汰なり云云と言ふ者あれども我輩は此説を聞て日本商人の支那行を留るの意なし盖し函館横濱の諸港に於て支那人が日本の物品を買出すは相違なき事實なれ共賣れたる物品は日本國の産物にして入るべき代價は日本商人の手に落るものに非ずや其間に支那人が相際の利を取るは商賣上共益の法に於て咎む可きに非ず支那人も買出す可し日本人も亦輸出す可し出入賣買勝手次第にして唯日支貿易の盛大を謀る可きのみ而して其貿易の盛大を求るには其國情を詳にすること最第一の要用なりとす即ち我輩が我有志の商家に向て頻りに支那行を促す所以なり