「開拓の功を急ぐ可らず」
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時事新報に掲載された「開拓の功を急ぐ可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
開拓の功を急ぐ可らず
北海道を開拓するには民利の在る所に基て先づ漁業水産の採獲を盛んならしめ事の發達を自然の順序に任す可しとの旨趣は我輩前日の紙上に於て既に之を開陳したり然るに尚ほ論者の説を聞くに北海道の開拓を導くの方便として第一着に漁業を奬勵するの策は行はれ難きに非ずして若し採獲の自由を許したらば内地人民も其利益を逐て移住するもの今日に倍■(くさかんむり+「徙」)するは必然なりと雖も其人種は孰れも無産無頼の徒にして利あれば聚まり利盡れば散ずるものより外ならず此の如きの開拓法は眼前の利益を貪る爲めに永遠北海道の富源を荒凉ならしむるの結果を見んのみ故に沿岸一帶漁業の便の存する限りは其局部に利益ある可しと雖ども其利益は偶ま以て人の群集を招くの媒介と爲り内地千里の沃野は之を顧る者なくして到底開拓の見込みある可らず是れ即ち北海道の殖民は漁業を事とするよりも專ら農業牧畜等を保護奬勵す可き理由にして水産の採獲は假令へ一時の便法たるに似たるも實際は唯烏合の細民を輻湊せしむるまでのものなれば其盛なるは寧ろ願はしきことに非ずと是れ自から一説なりと雖も然れ共開拓の事業は元來莫大の資本勞役を要するものにして開拓者が其業に熱心するも唯その■(しょうへん(将の左側)+「又」)益を以て資本勞役の費を償ひ尚ほ餘剩を見んとするのみの目的なれば如何に正面の理論に訴へ彼の漁業の採獲は眼前姑息の手段にして富源を荒凉ならしむる者なりと云ふにもせよ之を外にして方今の實際を如何す可きや恐らくは何人にも妙案なきことならん或は租税國庫の金を以て北海道に何何の耕作塲を作るべし又云云の製造所を起すべしとて強て保護干渉の手段を以て奏功を急くの説もあらんかなれども其説陳腐にして甚だ妙ならず且今の日本内地の時勢に照らして輕重緩急の別を混同したる者に非ずやと我輩は之を疑はざるを得ざるなり
世人が北海道開拓の功を■(しょうへん(將の左側)+「又」)むるに熱心する所以は唯獨り天賦の富源早く利用せざるを惜む可しと爲すに止まらず國防兵略の點に於て之を促したること亦最も急なる者の如し既に嘉永開國の以前より世の憂國の士は之を以て北門の鎖鑰と爲し其防禦を嚴にするには殖民開拓を先にするの外ある可らすと云ふ考へなりしに今の日本人も同く其意を受け何は兎もあれ北海道は國防上第一に開拓を急にすること大切なりと信ずる所へ「富饒の土地これを開かば財源限りなかるべし」との説重ねて其■(「生+丸」の下に「力」)〓を助け遂に世を擧げて北海道に着目するに至りたるは甚だ悦ばしき次第なれ共其極度より言へば餘り成功の覺束なき事柄にても單に北海道の名を重んじて一向に之に着手したるの形迹なきに非ざるが如し盖し兵略上の考を以て殖民地を開くの例は西洋諸國にも往往之ある話しにして現在英國か印度阿富汗の内地を開き或は露國がサイベリヤの屯田を急にするが如き即ち其例證なれ共總じて開拓殖民の事業たる兵畧と商賣と相併立せしめて其目的を達せんとするは所詮行はれ難き次第にして寧ろ殖民地の追追増加し進歩するに從ひ之を防護すべき兵略上の必要倒まに切迫するは西洋諸國概ね皆然らざるなし我北海道と雖もその趣は之に異ならずして恰も今の内地の如く人口も殖え土地も開け農工進歩して商賣繁昌に至るとせば其防禦の大切なることも今の北海道と同日の論に非ず或は北海道を無人の地に放棄し置かば敵國の兵不時に上陸して占領するの恐れありと云ふか然れ共今日の如く國防術の發達したる世の中に在りては平生其虞を防ぐの策も容易にして例へば三四艘の巡邏艦を設け、絶えず北海道の沿岸を警守せしむるのみにても預め敵の擧動を視察しその侵掠の念を斷たしむるに充分なる可し兎に角に兵畧上の目的より其開拓を急ぎ隨て農業を起し製造を盛んにせんとするの策は時勢不通の議論にして我輩の甚だ感服せざる所なり然らば北海道の開拓は不急なりやと云ふに决して爾思はざるのみならず其成功の速ならんこと偏に希望に堪えずと雖も爰に鄙見を陳れば其開拓の方法は唯商賣利益上の計算に得失相償ふて更に餘りあるの手段のみにして兵略上の事は別種の問題として更に北海道防禦の策を講論せんと欲するものなり
右の如く北海道の開拓は得失相償ふの手段を以て之を行ふこと得策なりとして偖其成功の一段に至りては或は遲遲たらんも知る可らずと雖も我輩敢て憂ひさるは内地の地面現在の人口に比例して甚だ廣き者に非ざれども未だ欧洲諸國の如く人員溢れて國内衣食の餘地なしとも云ふほどの切迫にも陷らず若しも年年に人口増殖して内地人を容るる能はざるの時に至らば北海道は自然にして開け往くべく夫迄開拓の業を遲遲たらしむるとも日本の財源減ずるに非ずして北海道は依然たる日本國の版圖ならんのみ然るを今日其功を急ぐの餘り得失相償はざるの方法を以て漫然計畫を下すが如きは經濟の許さざる所なれば目下の實際に適するものを擇んで先づ漁業を主とし唯開拓者の利益の存する所に從て其進歩を自然に促すこそ得策なれと信ずるなり