「横濱メール新聞紙を讀む」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「横濱メール新聞紙を讀む」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

横濱メール新聞紙を讀む

一昨八日發兌の横濱メール新聞紙は時事新報を評して云く新報は東京の上流社會に行はるる豪奢榮華に對して大に異を唱ふるものなり東京に住み慣れたる者こそ左迄思はざる可けれども二三年も不在にして更に首府の有樣を見る者は上流社會の次第に豪奢に進み建築の洪大交際の榮華なるに心付かざるはなし天下一般人民の困窮を考ふれば何とか改革を施さざる可らず其改革は中央より始めて外に及ぼす可し云云則ち新報の意見なれども其議論をして重きを得せしめんとするには今少しく明白に言ふ所のものなかる可らず豪奢を憂るは誠に善しと雖ども地方の困窮を救はんとして首府上流の節儉を以て救ふに足る可きや新報の云へる如く今の俸給を半減にするも何ほどのことある可きや斯の如くして租税に何の影響ある可きや全く無益の談にして所謂東京人の奢侈を輕重するに足らず吾吾(メール記者)の見る所にては徳川の時代に年年首府にて費したる金高は今日よりも多かる可しと思ふ者なり

以上メール新聞の意見なれども我輩を以て見れば其議論をして重きを得せしめんとならば今少しく明白なるを願はざるを得ずメール記者も地方の人民困窮の事實をば敢て抹殺するに非ず又豪奢の事を贊成するにもあらざれども唯大喝一聲を鳴らして役人の俸給など減じたりとて大海の一滴何の益する所もなしと云ふに過ぎず全く數理外の議論にして我輩が之を了解せんには今少しく立言の明白なるを願はざるを得ず良しや其漠然に任して些細の金の談には耳を貸さずとするも本來時事新報の持論は都て政費を節せんとする者にて俸給の如きは其形に現はれたる一項を例に示したる迄の事なり官吏の數を減ずれば自から政務は繁文を省き不急の事業を止るに足る可し俸給既に減して人員又少なし人民繁文の煩はしきを免れて政府の筋に不急の事業を起さず其益の少なからざるはメール記者も我輩と共に保證する所ならんと思ひの外豪奢苦しからずと云はぬばかりの筆法は我輩自國の爲めに謀りて聊か不平なきを得ずメール記者は知らずや我日本國は先づ農業の國にして專ら米作に依頼するものなり官吏の俸給論するに足らずと云はるれども爰に年棒三千圓の一官吏あれば一石四圓の米價にして七百五十石即ち千八百七十五俵を空ふするの勘定なり今農民社會に千八百俵の得失は啻に一村ならず一郷一郡の喜憂たる可し是等の事情は失敬ながら外國人の知る所にあらず况んや世界の富國たる大英の紳士メール記者に於てをや他の身代を氣樂に傍觀する者と云ふべし本國に居てはイザ知らず日本在留中は少しく其論鋒を緩にして我國人を酩酊せしむるなからんこと敢て冀望する所なり又その末段に東京にて毎年消費する金は徳川時代の方が多かりしとの妙説は我輩唯驚くのみ我輩は今日の消費却て徳川の時より大なりと思ひ自から其事實を示すに苦しまずと雖とも其數の論は姑く置いてメール記者の言の如く果して徳川時代には大に金を費したるものとして扨その事實あれば今の豪奢を評するの口實とするに足る可きや風邪はガウトよりも好しガウトは肺病よりも好しとて人の風邪ガウトを憂へざるものある可きやメール記者は徳川時代の肺病を抵當にして今の東京のガウトを祝する者ならんなれども我輩は何分にも憂國の至情我日本の無病を祈る者なり