「法官の正廉を維持するの説 (前號の續き)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「法官の正廉を維持するの説 (前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

法官の廉恥心を維持せんとするには先づ其人の利心を滿足せしめて安心の地位に置く可しとは我輩一家の私言新工風に非ず西洋諸國に於ても特に之を終身官と爲して又その俸給を厚ふするは安心の地位を授けて獨立の氣象を養ふの趣意なる可し其用意丁寧なりと雖ども尚ほ且賄賂の沙汰は止まずして醜聞頻りなりと云ふ法官の始末困難なるを知る可し左れば我日本に於ても今後文明進歩の時勢を思案すれば何は扨置き法官の俸給をば相當に増加して後年の禍源を今日に豫防するこそ得策ならんと雖ども扨如何せん我國財政の有樣を見れば民間の殖産いまだ起らず文明の事業は焦眉の急を告げ四面八方皆資財を要せざるものなくして其財の由て來る源は唯國民あるのみ近來新税法も頻りに起りて色色に計畫する所あれども今日の課税は既に其頂上に達したるものにして政府は專ら休養の方略にこそ忙はしけれ最早この上には税を増すの手段もなく又政府に於ても其いあるにあらざるや明なり即ち今の政府は正に今の歳入を以て今の政務を執り出入正に相償ふに止まりて餘計の財を費すの猶豫あらんなどとは迚も望む可らざる所なれ内には猶豫なくして外より新に入るの道を得ず然らば則ち今ここに法官増給の説甚だ妙なりとて之に從はんとするも實際に支辨の法なきは數に於て明なる所なれば是に於て我輩の一策は新に俸給を増さずして其人の生計に於ては恰も増給の實を得せしめんと欲するものなり即ち其生計に入るを増すの積極を去て出るを■(にすい+「咸」)ずるの消極に依頼するものなり凡そ人間の生計には幾段も差等ありて其上等を云へば上上限りなしと雖ども大體は國の貧富の程度に從ひ平均して上中下の分限あらざるはなし而して其下等の生活は固より士君子の堪ふ可らざる所なれば是れは例外として擱き中以上に至りては世界各國その趣を一にせず甲の國の中人と乙の國の中人と相比較するときは其生計に大なる差違ある可し例へば英國にては家の歳入一萬ポンド(凡六萬圓餘)以上ならでは富豪紳士の列に入り難しとのことなれども我日本國にては一家一年の所得一二千圓もあれば以て中人以上の地位に位するを得べし即ち日本の一二千圓は英國の六七萬圓に直るの割合にして數に於ては一二の六七十に於けるが如く誠に淋しき次第なれども雙方おのおの其國に居て其社會に對するの勢力は等しく中人以上の紳士にして其面目に輕重あることなし盖し日本國と英國と其貧富の差違は六七十倍なる可きが故に一個人の富有も其光明を放つに大なる差違あることと知る可し畢竟するに世人が自から其生計を豊なりとて喜び不如意なりとて憂るも其實は絶對の義に非ず唯その周圍の貧富に對し其榮華なると素朴なるとに見較べて自から貧富を感ずるのみ左れば今我法官の俸給も他の文明富國の法官に比すれば固より豊なるに非ずと雖ども左ればとて日本國に居て生計を立るには必ずしも中人以下の地位に屈伏す可き者にも非ず取水の空氣穩にして尋常一樣の日本國ならんには安心立命疑なしとも云ふ可き有樣なれども唯如何せん近來は朝野一般の風景日に外形の文明に進歩して〓を費すこと少なからず殊に官邊に流行する交際法の如きは最も美を盡すものにして法官も亦その交際中の人にして獨り素朴を守る可きにあらざれば其俸給の厚薄に論なく隋て入れば隨て出し家に殘る所のものなきのみか時としては出入相償はずして負債に苦しむ人さへなきにあらずと云ふ斯る時勢に際しては假令へ増給の沙汰に及ぶとも恰も底なき器に水を濯ぐが如く到底その獨立の生計に益することなかる可きが故に今の謀を爲すには官途全般に質素儉約の風を奬勵して法官の如きも唯日本の士人として中等以上の地位を維持するに足らしめ其生計に入るを増さずして出るを節するの道を示すこと最も緊要なる可し例へば法官の年俸千五百圓なるものを倍して三千圓に増加するも其増すに隨ひ周圍の風潮に迫られて之を消費すれば唯一時の豪奢を逞ふするのみにして自家獨立の生計に於て毫も益する所を見ず之に反して節儉の空氣に圍まれ素朴却て榮譽たるの時勢に推移るときは日本士人として見苦しからざる生計を立るに千五百圓の内尚ほ幾分を剩して後年の謀を爲すに足る可し加之人の心は其身の境遇に左右せらるるものにして居常質素を旨とすれば次第に淳朴の風を養成して君子正廉の志を繋ぐ可し即ち法官の資格に缺く可らざる獨立の基なり一方には國庫の累を爲さずして一方には法官の美風を永遠に維持す可し一擧兩全の策は唯官邊の節儉に由て成る可し我輩の飽くまでも勸告して止まざる所のものなり    (畢)