「勅令第五十六號」
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時事新報に掲載された「勅令第五十六號」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
勅令第五十六號
昨日の時事新報官報欄内に記したる勅令第五十六號は地方税に關する寄附又は雑入の事にして凡そ地方税を以て支辨す可き事業に關し寄附する金穀物件は府縣會の議決を経て寄附者の指定したる費途使用に充つ可し又地方税の雑収入は他の収入豫算と同しく府縣會の議定に付す可しとあり是れは何れにも府縣會議の領分を廣くして之に重きを付したる者なれば會の爲めには先づ以て目出度き次第なりと云ふの外なし殊に人民の奇特を以て寄附したる其金穀物件を費し又使用するに當て寄附者の指定に任ずるが如きは最も至當のことにして堤防の目的に義捐したる金を道路の爲めに用ひらるゝが如きは甚だ本意に背くことなれば傍より彼れ是れの論なく云はゞ金主の差圖通りに金を費すの趣意にして人情に於ても道理に於ても間然す可らざる所のものなり扨寄附物の用法に就ては既に遺憾なき次第なれども我輩が序ながら一言せんと欲する所のものは其寄附物の性質如何の事なり抑も日本國は西洋諸國に比して富實ならずと云ひ、日本人の生活の程度は西洋人より高からずと云ひ、西洋人は時として大に財を散ずることあれども日本人には兎角散財の勇氣なしと云ふが如きは世人一般の知る所にして詰り日本人の財産は平均して西洋人に及ばざる其實證の事跡に現はれたるものならん例へば神社佛閣の建立又は私立學校病院等の設立維持に就ても義捐を募るは甚だ難澁にして容易なることにあらず其事柄を人に謀れば至極尤なりとて賛成者は多けれども實際に金を捐るの一段に至れば先づ人に譲るの常にして其趣を評すれば有志無金の世の中なりと云はざるを得ず然るに爰に奇なるは政府の筋より直接にも間接にも何か事業を起すときは人民に寄附義捐を發意するもの甚だ少なからず各府縣に於て道路開鑿と云ひ官廰建築と云ひ公立の學校病院又は公園集會所など設立と云へば寄附義捐は続々集まりて見事に成るもの多し既に先般も各地方にて中學校の維持云々に付ても其寄附金の盛なること何の苦勞もなくして巨額の資本を募集し了り又彼の海防費献納などは別段の事にして以外の好結果なりしよし又數年前に溯れば山形福嶋縣等にて新道普請の時などには其地方の人民は小前の者に至るまでも金圓又は所有の田畑山林等を寄附したること夥しき數なりと云ふ畢竟我日本國民の順良にして政府を信ずること厚きが故に然るものならん政府の起業を見れば人民は恰も私の貧富を忘れて熱心以て公共の爲めに散財するものゝ如し此一點より見れば日本人の生活その程度低しと雖ども低きは低き割合にして財を散ずるの勇氣は西洋人にも愧る所なしと云ふ可し
然りと雖ども我國民知識の程度は今日尚未だ高からず云はゞ舊幕府の遺民とも稱す可きもの甚だ少なからずして地方官が之を御するの法は唯公法のみに依る可らず所謂手心なるものにて時に之を説諭し又警戒して辛ふじて大なる過なからしむるとの事は我輩の毎度傳聞して事實に相違もなきことならんなれば彼の寄附金義捐金等の事に付ても素より人民自發の熱心より募集に應ずるものたるは疑もなきことなれども憐む可し其無智不明、官の筋にて何々の事業を企て其事に付き寄附云々と聞けば是れは人民の義務、即ち舊時の言葉を用ふれば御上への御奉公御役目にて相勤めずしては叶はぬことと心得その熱心の餘り前後を顧みざるが如き事情なしとも云ひ難し去りとは自身の力になき財を投じて却て後に當惑することもある可し誠に憐む可き次第なれば此邊は地方官の手心にて假令へ人民が一時寄附金に熱することあるも能く能く其情實を取糺し實際にあるまじきことゝ認めたらば唯その奇特の情を嘉するのみにして出金の沙汰に至らしめざるやう呉れ呉れも注意し寄附金の募集と共に又一方には寄附を防ぐの工風も大切なる可し心なき人の考にしたらば人民の志にて寄附する金を故さらに拒むとは迂濶なりなど思ふ可きなれども凡そ政府たるものは自から政府相應の徳義なかる可らず此徳義を傷けずして之を護らんとするには眞實に徳を脩るのみならず公衆の嫌疑を避けんが爲めに特別に勉る所なかる可らず天下無數の人民の中に假令へ一人たりとも其本心になき寄附金したる者あるか又は之を寄附して後に後悔し又難澁するが如きものありては政府の徳義に瑕瑾を生ずることなれば謹愼に謹愼を加へて尚ほ足らざるものと知る可し我輩が寄附を防くとまで痛言したるは政府の此徳義を重んずるが故なり舊幕府の時代に諸藩に御用金の沙汰ありしかども是れとても敢て直に政府より命ずるに非ず其表面は人民が再三再四懇願の上にて然る後御用金上納の許可を得るの體裁に取繕ふたることなれども其體裁は何の効能もなく御用金の談は今日に遺りて封建時代に行はれたる弊事の一として計へられたり左れば封建の時にも稀には人民の誠意誠心より奮て出金したる者もありしならんなれども一般の惡風に掩はれて其誠を達するに由なし故に今日の寄附金は一般に人民自發の心に出でしものならんなれども稀にも其中に然らざる者あるに於ては他の誠をも抹殺するの恐なきにあらざれば政府の徳義を重んずる地方官にして其注意の大切なるは筆紙に記しても盡きざる所なり偶ま勅令を拝讀して寄附の文字あるに付き平生の微意を記して大方の教を乞ふ