「華族は其子弟を普通の學校に入らしむ〓し」
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時事新報に掲載された「華族は其子弟を普通の學校に入らしむ〓し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
華族は其子弟を普通の學校に入らしむ〓し
我輩は此程の紙上に於て現今華族子弟教育法の不完全なる所以を論じ華族學校を中心として他に就學の餘地を狭くするの不策なる次第を陳述したれども尚ほ聊か論意の盡ざる所もあれば重て爰に鄙見を記して華族諸氏に質さんと欲するは外ならず抑も學問の事たるや講堂内の教育素より大切なるに相違なしと雖も同時に忘る可らざるは講堂外の教育にして其學科々程の如何を問はず一種言ふ可らざるの邊に學風氣習なるものを存して知らず識らずの際に人を變化養成するの事實は古來の経驗に於て明白なる可し即ち單に講堂内の教育にのみ依頼して人物を作らんとすれば其弊は人を狭隘なる模型の中に逐縮せしむるの免れ難き由縁にして例へは華族教育の法の如きも嚴然たる華族學校を中心にして首尾全體を悉く一の縄墨の下に括らんとするの手段は秩序の整頓こそ想ひ見る可きものなれども人物養成の一段に至りては齊々たる多士果して斯る教育の風下より顯はれ得べきや否や我輩の最も疑はざるを得ざる所なり官立の學校と私立の學塾とを比較して學科々程の優劣如何んを論じたらば學塾の不規律不完全なる一見して驚くに堪へたるの次第もあらんなれども斯る不規律の門よりして有為の人物を出したること決して官立の學校に讓らざるの例あるも全くは講堂教育の束縛を以て人才の發達を妨げざるの利益なりと云はざる可らず我輩の見る所を以てすれば今の華族就學規則の如きは之を一般官立學校の制限に較べて其規律の嚴重なること遙か數等の上に位する者にして隨て人を模型の中に陶冶するの憂なかるべきやと諸氏の為めに聊か掛念する所のものなり
且つ一歩を進めて論ずるに今の華族を一概に無教育なりと為すの論者もあらんなれども我輩の解する所に於ては謂ゆる其無教育とは唯單に實用上の學に暗らくして世事に不通なりと云ふの意味にして若しも文學美術の點より其人の學問を評したらば獨り無教育なりと為す能はざるのみならず其道に堪能にして廣く諸藝の心得あることは尋常人の遙に及ばざる所も多からん舊時の公卿が詩を賦し歌を詠して花晨月夕に風流文墨を事とし或は琴碁書畫の筵に於て韻事を闘はせたる等の趣に至りては千古に其芳談を留めたる者も少からず斯る次第なれば武家大名までも自然に文事に魂を耽らして家の祖先は戰塲に櫛風沐雨したる殺伐果敢の武将たるにも拘はらず後世の主公は詩歌管弦を弄んで其優美なること徳川三百年の治世中、殆んど大名高家普通の習俗とも云ふ可きほどの有樣なりき即ち文事一片の心得に於ては充分なる者なりと雖も未だ之を以て昔の大名に教育を備へたりと為す能はざる所以は唯その世事實學に暗らきの咎と云ふの外なる可し今の華族諸氏〓其文の心得に於て昔の大名に讓らざるは勿論なるべけれども謂ゆる文弱の文にして素より實用に無縁なれば今日子弟の教育法を講ずるにも漫然たる讀書作文を以て足れりとするに止まらず其大本に溯りて教育全體の精神より變革を加ふるに非ざれば今の青年子弟の人も相變らざる第二世文弱の華族たるべき恐なきや氣遣はしき次第と云ふ可し故に華族子弟の為めにするに其教育の方法は學科々程の外に於て積弱の心身を一變せしむべき新手段を用ふること最も大切にして若しも此手段の行はれざる限りは尋常一樣の講堂教育は所詮其効に望なしと斷言して差支えなかる可し
一説に華族子弟の體格は虚弱にして世間の少年と伍を同ふするも望むべきに非ざれば隨て其學校を別にするは實際に已み難き次第ならんと云ふ者あり自から一理あるに似たれども其虚弱の懸隔を矯むるの法は今の如く全く其教育を別にすると又之に反對して民間の子弟と伍を為し其中に混同して同窓共學を隨意ならしむると孰れが利益多かるべきや優者の群中に劣者其跡を留むる能はざるは物の定則にして虚弱なる華族の子弟が活溌なる民間の學生と同一塲裏に競爭するの困難なるは數に於て明白なれども錦衣の公子必ずしも皆虚弱のみに限るべからず或は天性は虚弱なるも人為の練修其宜きを得ることあれば中途より變じて強壮の人となるは珍しからぬ話にして縱令へ體格云々の遁辭を用ふるも我輩は決して華族教育の特別主義を賛成し能はざるなり或は華族の子弟を民間の學生と混同すれば其品格を落すの憂ありと言ふか此言亦以て特別主義の防禦とするに足らず封建の昔し威迫恐嚇を以て貴族の聲望を繋ぎたる時代ならば兎も角も文明の今日社會の標準たるべき華族にして漠然たる一種品格の餘光を假て己れの尊敬を保たんとするが如きは抑も誤まりの甚しき者なり西洋の君主國に於ては皇子皇孫の尊きを以てして尚ほ世間通常の學校に教育を受け民間の青年子弟と眠食を與にするの事例多けれども未だ其品格を落したるの談を聞かず況んや一般の貴族をや斷じて憂ふるに足らざるなり
以上の所論果して是なりとすれば華族諸氏が今の華族學校を中心にして子弟の教育を統轄せんとするは自家の不利のみならず天下の為めに其財産門地を利用せんとする經世の眼より視ても惜しむ可き次第なれば早く此中心の束縛を離れ世間通常の學校に於て其教育を踏ましむるの手段こそ大切なれ我輩は諸氏の之を行ふに勇なるを祈る者なり