「大坂川口の入津料は都下の繁昌と兩立す可らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「大坂川口の入津料は都下の繁昌と兩立す可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

大坂川口の入津料は都下の繁昌と兩立す可らず

農工諸種の物品にして土地の需用に餘り有るものは之を他の地方に送り其不足するものは更に供給を他に求め彼我互に賣買交換して相益するには其間必ず市塲の便なるものなかる可からず大阪の地は關西商賣の一大市塲にして四國九州及び中國にて産出するものも又消費するものも農産製品共に此大市塲に來りて又出るもの甚だ多し何れも皆有餘不足の平均を求るが爲めならざるはなし蓋し大坂の川口は入りに千艘出るに千艘の諺を成したる所以にして坂都繁昌の大本は全く船舶出入の多きに在りと云ふて可なり故に今數百年來の繁昌を維持するには其方便一ならずと雖ども船舶出入の便利を謀るは最も大切なる事なれば大坂人の常に注意する所にして例へば川口の浚渫を計畫するに金を愛しむの色なきも其證として見る可きものなれ然るに我輩の少しく不審なるは其川口に入る船舶に入津料を課するの一事なり川を浚へるは入口を便利にするものなり入津料は之を不便にするものなり前後撞着の意味を免かれず固より其入津料とて金の高より云へば些細のものにして噸數に應し帆別に割付け何ほどのこともなかる可しと雖ども之を徴收する爲めに川口にて手數を煩はすのみならず時としては入津の時機を誤ることさへなきにあらざれば金高は兎も角も船持は單に之を面倒なりとして自然に大坂の川口を避けて近づくことなきの意を生ず可きは人情に於て免かれざる所なり

多年來大坂は關西商賣の中心にして人事に於て既に商權を事にするのみならず其川口に天然の便利は風の方向にして暁は地方より吹出し午後は川口より吹込み春夏秋冬大抵これを違へずして出入の船は常に順風に賀するの利あるのみならず入津料などは曾て知らざる所にして出入千艘の賑ひと共に市民は獨り繁昌に得得たりし最中に東方江戸の入港は甚だ煩はしく如何なる船にても相摸洋を渡りて浦賀に至るときは嚴しき■(てへん+「檢」の右側)査に逢ふて容易に江戸灣に入るを許されず十分の帆に風を孕みて驅け込み轉瞬の間に品川沖に入る可きものも船番所の一喝は此順風を空ふして一日の■(てへん+「檢」の右側)査に十日の期を誤らしめたるの事例は毎度珍らしからぬことなりし即ち江戸と大坂と比較して入港便不便の相違なりしが今は全く相反し維新以來浦賀の船番所は全く廢せられて東京灣の入船に何等の故障を見ざるに引替へ大坂の天保山が恰も浦賀を相續して入津料の爲めに一時通航の自由を妨げらるるとは時勢の變遷も亦奇なりと云ふ可し或は大坂人の説に川口浚渫の費用は毎年莫大なる金高にして此金圓は單に出入船の爲めに費すものなれば入津料も即ち此浚渫費と視て異議ある可らずと云ふ者もあらん成るほど此説も自から一説にして甚だ簡單明白なるに似たれども所謂一を知て二を知らざる者の淺見たりに過ぎず今道路を損害するものは人力車より甚だしきはなし故に道普請の費用は人力車夫に課す可しとの議を發したらば如何、先づ以て否决することなる可し何となれば直に道を損するものは人力車の兩輪に相違なしと雖ども此車を利用して人事を辨じ其便利を利する者は一般の人民なるが故に課税の任も亦廣く人民に歸するの慣行にして特に車夫の負擔を重くするの理由あらざればなり左れば大坂の川口を浚へるも直接には出入船の爲めなれども此船に由て全都の繁昌を買ふ者は一般の府民なるが故に我輩は浚渫の費用を求るにも亦その繁昌を利する一般の府民を目的にせざるを得ず特に之を船に課せんとするが如きは感服せざる所のものなり

過般大坂の商法會議所にて入津料廢止の發議ありしと聞き我輩は遙に之れを賛成して止まざるものなり會議所の紳商は大坂の爲めに百年の利を謀るものなれば必ず之を議决して大坂の川口を出入千艘の舊面目に復し大都會の繁昌を永遠に維持することならん我輩の信する所なり在昔堺港は畿内の沿海にて最も繁昌の地なりしものが爾後その盛運漸く大坂に移り徳川政府の治世中盛大の極に達したれば今度は又轉じて兵庫に移らんなどなど舊幕府の末年に往往世人の想像する所なりしが固より賣卜者流の豫言にして取るにも足らざることなれども偶然にも神戸開港の今日に至りては此豫言必ずしも中るなきを期す可らず大坂人は世人の言の智愚如何に論なく人事の大勢に注意して深く自から戒しむること肝要なる可し