「西洋の風を模するには取捨する所あるを要す」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「西洋の風を模するには取捨する所あるを要す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

(昨日の續き)在英國 高橋達

國の基は工商業に在ること論を竢たざる所にして歐洲一般就中英國の富強の今日に至りし

其原因も全くは國民の勉強節儉にして能く工商の業を勵みたるに在る者なりと云はざる可

らず我日本の開國は今に於て既に三十年を經過したれば其間西洋事物の日本社會に傳はり

たる者二三にして足らざれ共其文明は政治法律陸海軍事或は又汽船電信鐵道の如きものに

止まり工商の事業に至りては間接に多少の變動ありしにもせよ大體は依然たる封建時代の

舊習を今日に尚ほ墨守する者にして少しも進歩改良の實跡を見ざるは殆んど不可思議に堪

へざるなり近來日本人は自らも文明進歩の速きを以て人に誇り西洋諸國も亦日本改進事業

の活溌なるを稱算して已まざれども謂ゆる其進歩と云ひ改進と名くる者は唯有形の事物若

くは又模倣的の制度を指したるに過ぎざるのみ若しも公平に社會の全體を看渡して就中國

の富強の大本たる工商業の有樣より其趣を批評したらば三十年來果して世界に誇る可きの

文明進歩を爲したりと云ふを得べきや疑はしき次第なり盖し有形の事物を以て今の日本を

三十年以前に較べたらば著しき相違變革を來したるは掩ふ可らざるの事實ならんと雖も之

に伴ふに無形の進歩を以てせざる其間は外部の文明何の用をも爲す可らず日本三十年來の

改進は全く政法部内の進歩にして文物典章の美は燦爛として西洋諸國に劣る所なけれども

之と同時に工商部内には如何なる變化を來したりしやと云ふに我輩に於ては遺憾ながらも

先づ進歩なきものなりと返答せざる可らず我輩日本に在るの日に於ても工商業家の無學不

文にして殊に其の進取の勇氣なきを嘆息に思ひ居たる所なれども西洋に來りて到る所工商

の人に接し其學識經驗を叩く毎に一には西洋富強の由來する次第を悟り二には又日本の工

商業家は何故に斯く獨り世界の風潮に後れたりやと思はず嘆聲を發せざるはあらざるなり

日本今日の文明は政法部内に於て其改進既に充分なりと云ふに非ざれども工商事業に變革

を加ふるの要用に至りては之に比して尚ほ一層に大切なりと云はざる可らず日本前途の改

進を計る者豈大に爰に鑑むる所なくして可ならんや

右の如く日本の文明は政法の事のみ最も進んで工商業獨り大に後れたるは他に種々の原因

もあることならんと雖も就中西洋文明の輸入者たる人物は一に士族の門より出でゝ工商業

家の之に關係せしもの少なきこと其主因なる可し開國の始めよし西洋に渡航して彼地の文

明を視察したる人々は盖し孰れも武門武士なる者にして祈國平天下の事に於ては豫て多少

の心得もあり即ち最も政法の門に入り易きの種族にして其己れに近き所より西洋の文明を

採りたるが故に工商業の如き本來無縁の事柄には注意至て淡泊にして其必要如何んを感ぜ

ざりしも亦咎むるに足らず其學資と云ふも當時多くは皆官の手に出でたる者にして之を使

用するの情に於ても恰も武士が世祿に衣食して恬然たるの趣なきに非ず隨て文明視察の眼

光も之を西洋國民勉強節儉衣食生計の點には注がずにして寧ろ外形の奢侈壮觀に其心を傾

け專ら表面より文明を視るを勉めて却て裏面より之を窺ふを忘れたるの奇談はなかる可き

や此の如く從來の洋行者が主として文明の表面より其觀察を下したるは决して其人不肖な

るの致す所に非ず否知識敎育の點に於ては此等の人々は實に等輩なきの俊士ならんと雖も

如何にせん地位既に直接に衣食の事に縁なければ事物見聞の際に於ても其注意自から此邊

に迂濶ならざる可らず若しも開國の初年より工商業家をして地を替へて陸續洋行せしめた

らば必ずや先づ己れに利害關係の最も直接なる衣食生計の有樣に着眼し西洋一般勉強節儉

にして最も奢侈を忌むの風俗を發見したりしことならんなれども其事此に出でずして日本

の文明輸入者は理財生産に最も無縁なる士族の門より顯はれたるの一事國の爲めに惜まざ

るを得ざるなり

日本の文明輸入者が今日迄に取る所の手段を視るに勉強節儉の事の如きは苟めにも之を言

はず唯西洋の華美贅澤をのみ吹聽して人をして文明とは即ち奢侈の反語なるかと疑はしめ

たるの状態なきに非ず即ち舞踏夜會演劇改良男女交際の道よりして或は公園地遊歩地の設

けに至るまで其の事の大小は論ぜざれども兎に角に西洋外形の文明を粉飾し一方に勉強節

儉の功は少しも擧らざるに一方に奢侈逸樂を事としたらば國の成行如何なる可きや掛念に

堪へざる次第なりとは我輩既に前節に於て開陳したる所なれば今日の策を爲すにも政府よ

り官費にて派出す可き遊學生の數の如き大に之を減少して成丈政府節儉の旨を示し之に代

ふるに工商業家を奬勵して自ら進んで西洋に渡航するの風を養はしむるは大切なる可し又

工商業家自身に於ても今は昔しの職人素町人を以て居る可きの時節に非ざれば其子弟に充

分の敎育を授け有爲活溌の人物を作ることに盡力す可きは勿論にして本人或は老いたらん

と雖も其志未だ朽ちずんば世に處して功名を建るの機後れたりと云ふ可らず政法偏重の文

明を矯正して工商の事業に因り國の大本を養ひ以て日本建國の獨立を全うするの任は我輩

之を今の工商諸氏に歸せざる可らざるなり(完)