「登記法」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「登記法」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

登記法

前號の紙上に時是れ黄金と題し今の官民の間には兎角公務に關して雙方の時を空ふすることなきにあらざれば何とかして今少しく簡便の方法はなかる可きやと我輩が兼て冀望する所の大意を記して大方の教を求めたり抑も方今我國は日に月に改進の門に入るの最中にして爲す可き事甚だ少なからず即ち文明の盛事に忙はしきものなれども改進文明は何れも金を要することにして其金の由て來る所の源は國民の殖産より外ならざるが故に何は扨置き國中の人人を奬め勵まし一刻千金大切なりとして働かしむるの工風こそ肝要なる中に就ても差向き爰に官民の當局者に向て注意を促さんとするは登記法の一條なり此法は本年二月より實施して地所、建物、船舶の賣買讓與質入書入に付き登記所に登記を請ふの法にして畢竟人民の契約を堅固にするものなれば誠に美なりと雖ども今日の實際に於ては其手數甚だ容易ならず先づ東京などにて地所家屋又は船舶を賣買し質入にせんとするには其金高と約條の次第とを書面に認め繪圖面を添へて登記所に行くに其前、先づ區役所に出頭して印鑑證明願なるものを呈し何の誰印鑑斯の如し右御證明被下度奉願候也と書面を出し役所の證明を得て登記所に行き其證明書を差出して本人のいよいよ本人に相違なきを慥かめ夫れより登記の事を行ふと同時に登記料を納るにも又書面を認め登記料上納金何圓右上納致し候〓年月日賣渡人姓名印、買受人同斷捺印して之に金を添へ登記所に納りて始めて賣買讓與質入書入の事を成したるものなり斯く此紙上に記せば何の造作もなきやうに見ゆれども人間世界に賣買貸借は其件數も非常に多くして其金高の差等も殆んど際限あることなし上は何百何十何萬の巨額より下は僅に何圓の小〓に至るまで其取引は人民の身に取りて至大至〓の〓〓に關し之を簡易にすると面倒にすると其取扱〓〓〓で社會全體に現はるる所の影響は决して容易ならず〓〓の賣買貸借も一日の期を後れて十分の用を爲さず或は一時間の前後を以て全く無効に屬するもあり况して其以下小數の取引に於ては其間に利する所も少なきが故に事實に必要ならざる手數をば省く上にも又これを省いて俗に云ふ右から左に辨するの活溌なかる可らず例へば今商人が千圓の金を運轉して三日の取引に一割若しくは一割半を利す可き見込みあれば此千圓の金策に地所にても家屋にても手當次第に質入書入にし十日を期して返濟を約し十日の間に五圓若しくは十圓以上の利子を金主に拂ふが如きは尋常一樣の事にして利子の高下などは問ふに遑あらず唯事の迅速を貴ぶのみ所謂商機一刻直千金なるものにて其掛引の劇しきは他人の得て知る所にあらず殊に日本士族の末流たる學者又は官員社會等の人に於ては殆んど解し得ざる所のものなり(公債證書に記名を悦ぶ者は士族流にして商人の活溌なる者は無記名を便利なりとす甲は靜にして動かざるが故に念に念を入れて名の慥なるを主とすれ共乙は取引の便利を利するものなり此一事にても商人等が手間を惜しむの實情を見るに足る可し)然るに彼の登記法は其法の精神は誠に美なりと雖も之を行ふに當りて當局の官民雙方の不慣に由るものか何分にも其手數に堪へず時としては區役所の印鑑證明願に手間取り、登記所の込合にて手間取り、又或は不文なる商人等は書式を誤りて再三の認替に手間取る等何分にも登記の首尾を終るに時を期す可ざるが故に一方の商賣取引に付ても豫め時を約束す可らず三日中に金を拂ふと約束しながら不幸にして登記の關門滑かならざることもあれば取引は都て破るるのみか時としては違約の損毛に罹るやも圖る可らず既に東京の市中に於ては金融商賣の人は勉めて地所家屋の抵當を避け慥なる抵當には先づ公債證書に指を屈するが故に恰も取引世界に抵當物の數を減したる姿にして是亦偶然に公債證書の價格を保たしむるの一原因ならんと云ふ者あり東京は其繁昌と共に萬事簡易にして便利なりと稱する塲所柄にして尚且斯の如し田舍地方に至りては小民等が一反歩の畑地を抵當にして五圓か七圓の金を隣家翁に借用せんとするにも登記法に由らざれば叶はずと聞き旦那寺の和尚か若しくは小學教師に依頼して借用證文と願書類を認め居村より西の方一里半の地にある聯合戸長役塲に行て印鑑證明を願ひ奉り夫れより東の方四五里の山坂を超えて郡役所に登記を請ひ貸方も亦委任状所持の代理人を差出して貸借人雙方の調印相濟み始めて五七圓の借用成るが如きは迚も一二日の手間に非ず百姓の手間安しと雖ども人生の一日は則ち一日にして其一日は黄金の細片なりと思へば亦愛しむ可らざるに非ず細片細なりと雖ども集れば大塊たる可し日本國中地所家屋船舶を賣買讓與質入書入する者その數盖し少なからず左れば我輩は現行の登記法を是非するに非ず又その税率を高しと云ふにも非ず唯この法を實施する爲めに官民雙方の手數を煩はして時を空ふすること容易ならざるが故に單に殖産の一點より觀察を下だして何とか便法はなきやと頻りに之を求る者なり殖産は政府の當局者にても最も重んずる所のものなれば今の登記法を今の如くに行ふて國の爲めに利する利益と之を簡にして殖産上に利する利益とを比較したらば或は其損益を見出すに足る可きか