「十州鹽田組合紛紜の落着」
このページについて
時事新報に掲載された「十州鹽田組合紛紜の落着」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
十州鹽田組合紛紜の落着
山陽南海の兩道十箇國に跨がり二三年來結んで解けず今年に入りて益益其氣焔を増加して世間の一大問題となりたる十州鹽田組合の紛紜は最早や落着の緒に就かんとす讀者は此程の本紙に掲載したる山口、岡山、廣嶋、兵庫、愛媛の五縣に向つて其筋より鹽田規約に付き内達したりとの一節を記憶せらるるならん其内達とは即ち去る明治十八年八月を以て農商務省より十州鹽田會組合規約の大主意として右五縣に達したる三箇條中製鹽の事業は一箇年六箇月を限り猥りに其制を超ゆることを得ずとあれども營業期限を右の如く確定したる事に就き尚ほ充分に調査す可き廉あるが故に再調査を遂げ追て何分の沙汰に及ぶまで該條項は實地の施行を中止すべしとの事なり左れば是れまで委しく本紙上に報道したる如く此紛紜の事の起りは件の營業期節にありしものなれば此内達は右五縣の之れを奉じて該條の實施を中止すると同時に農商務省にては殊に吏員を派して精密なる再調査を遂げ不日當業者中に苦情なかる可き樣取計らはんとの臨時處分に外ならざるべし我輩の今讀者と共に此事件落着の緒に就かんとするを喜ぶもの是れが爲めのみ
此組合紛紜者の一方は播三備藝防長阿豫の九箇國にして其相手は讃州の内殊に東部を主とす而して此紛紜の原因たる營業制限の由來を尋ぬるに今を距ること百餘年前防長藝備播豫の諸國即ち當時日本鹽業の中心たりし地方は鹽價日に低落して當業者も困難を極はめ鹽田變して草野と爲らんとするに際し鹽價を維持して其困難を救はんが爲めに一方には製鹽の額を減じ一方には鹽田を休養せんと企てたるに起れり所謂三八法なるもの是れにして實に防州三田尻の鹽業者田中藤六氏の工風なりと云ふ當時は日本國中以上の諸國の外に盛んなる製鹽地もなく又海外より製鹽の輸入し來る便利も開らけざりしが故に此三八法頗る功を奏したるを以て爾來鹽業の衰頽に傾かんとする時は該地方の營業者は何時も此制限法を實行せんと企てたり然れども明治十五六年の頃までは讃州一體(坂出新濱、綾井濱、託間濱は別にして)氣候風土より製鹽の性質及販路其他の事情九箇國と相異りたるを以て此組合に入らざるのみか外九箇國にも右の法は充分に行はれたるにあらず同盟加入者にして制限外に營業したる者さへ多くして隨て苦情も絶えざりしかど當時の組合規約は同業中互に便利を旨として結びたるものなるが故に營業の都合に因り之れを破りしとて違約金を取立つる抔嚴しき沙汰も無かりしを以て紛紜苦情も甚だしき度に達せざりし然るに去る明治十七年農商務省にて十州の鹽業熟錬者を神戸に集め鹽業諮問會を開らきたる節讃州一體の當業者も出席したれば機會失ふ可らずとて諮問會に引き續き十州同業の相談會を開いて規約を議定し農商務省に認可を求めたり(讃州出席員の中には右樣の相談に與る可き權理なしとて直ちに歸國したる者なり)明けて其の翌十八年八月に至り前節に記したる如く農商務省より五縣に特達を下し茲に始めて十州中に嚴行し得べき規約成立したれども讃州は前述の如き事情、到底此の規約を遵奉し難きものあるを以て東讃の如きは支部も立てず昨十九年は矢張營業を引續けんとしたるに縣廳〓〓所より達して休業せしか當業者は頗る難澁を覺えたり而して今年に至りては當業者の疲弊最早や此達しを守るに堪へざるに至りしを以て規約外に營業したるに組合本部は直ちに之れを訟廷に訴へ茲に其紛紜の熱度を高めたり斯くて一方には營業停止を被り飢餓に瀕したる鹽民等が進んでは郡衙に迫りて哀を乞ひ退ては所所に集會して不穩の擧を企てんとし一方には益益規約を履行して之を鎭靜せんとし縣治上殖産上容易ならざる現状を呈出して世の耳目にも觸れ營業者は勿論官民一般の首腦を苦しめたるもの即ち此事件の畧歴史なり
抑も世の政府なるものは一令を發し一達を下すにも常に小心翼翼として其實施の利害を慮り斯くしたらば世安を妨ることなかる可きか、如何にせば民業を發達せしむるに足る可きかと苦心焦思するにも拘はらず時としては其成跡齟齬して期する所に反することあるを免れずと雖も我輩の所見は决して之を怪しむものにあらず苟も全智全能を有する鬼神にあらざるより以上は人間の常態として必ず之ある可き事柄なれば只其過を認めたるに從つて躊躇なく之を改むるの一法あるのみ國利民福の爲めには政府が朝に令して夕に改むるも决して憚るに足らずとは識者の常に唱道する所にして至極の道理なれども近く世間の實際を見れば至極の道理も案外に行はれ難くして事の不利は既に明なるものにても巳に一度び官省の令達と爲したる以上は容易に動かし難しなど云ふ意味もなきにあらざるが如し即ち彼の十州鹽田組合規約の令達の如きも當局者が國利民福を以て心とし小心翼翼、熟慮倩考の後に發したるものなれども實際に施行するに當りては其の成跡期する所の如くならず遂に此紛紜を釀出したる次第にして葢し千慮の一失、人間に免れ難き齟齬なりと謂はざる可らず、然るに我農商務省は一度び令達したりとて其情實に拘泥せず、知りつつ非を遂げんとするが如き人情に制せられず事の不利を知るや之を改るに吝ならずして斷然臨時の處分を施したり我輩は世安民業の爲め讀者と共に此處分を贊成する者なり