「事の簡易を祈る」
このページについて
時事新報に掲載された「事の簡易を祈る」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
事の簡易を祈る
頃日の一話に去年中東京府下の或る紳商が數名申合して東京近傍の地を擇び製造所を設立せんとて地所買入れの談判も整ひ手金も渡して塲所は定まり夫れより會計組織の事に付ては表向きの願屆もあれども是れは唯公式ばかりのことにして左まで手重き事にあらず唯急ぐものは器械なりとて早速外國に注文し其品の到着次第開業する積りにて會社設立の儀を其筋へ願出でたる處、中中以て容易なる手數にあらず先づ發起人の身元調とて其貧富は勿論平生の人と爲りは如何なる性質の者にてあるかと逐一これを調べるに付ても唯の世評にては證とするに足らず其管轄の戸長役塲より郡役所府縣廳の認る所にて大丈夫と視るにあらざれば叶はざることなり然るに右發起人の中には東京の紳商にてありながら本籍を上方の某縣に存する者ありければ府下にて其人の姓名を云へば富豪隱れもなく、疑ひもなく、商賣社會十二分の信用なれども其筋の表面にては何ものとも相分らざる素町人なるが故に態態本縣に照會して本人在籍の戸長役塲、それよし郡役所、それより縣廳を經て回答に及び何縣何郡何村何某は身元慥なる者なり人物疑はしき者にあらずとの證を得て東京の店に照らし見れば成るほど日本國中屈指の豪商なることが始めて明なりしにもあらず疾く世上には分明なれども表向きの手順儀式に於て始めて公認せられ然らば會社設立の儀は苦しからずと許可せられて夫れより又一方に警察の取調べとなり、火の用心は如何、衛生の關係は如何、不潔ではないか、騒騒しくはないか、人民往來の妨害にはならずや、近傍住民の迷惑にはならずや云云にて是れ亦容易ならず、斯る次第にて發起の其時より日又日を重ね、書面又書面を指出し、書式を誤りては認め替へ、奉呈の筋を間違へては却下せられ、夫れ是れする中に凡そ五六箇月を經過して曩きに外國に注文したる器械は先方へ注文書の達したる日より三週日目に荷物を積出して既に横濱に着し其間凡そ半年を費したりしが日本にても事業の發起より着手に至るまで表向きの手續に丁度半年を經たり畢竟人民が官邊の文事に不慣なるが故に無益に日子を空ふし手間を費したるものなりとは申しながら其筋に於ても何とか今少しく臨時の處分はなかる可きやと我輩は甚だ遺憾に堪へざるなり抑も會社設立に付き政府の筋にて注意を加ふるは無一物の狡猾者が世の風潮の飄飄たるを利し巧に説を作りて一時を瞞着し其間に騙取同樣の手段を運らす者を惡んで其弊を止めんとする優しき精神なるは我輩の飽くまでも知る所なれども扨その精神を實際の事實に貫かんとするは甚だ困難なることにして人力の及ぶ所なる可きや否や一問題として視る可きものなり我輩の所見にては迚も今の世の風潮にて會社設立の狡猾手段を豫防するの妙案はある可らず唯その事跡に顯はれて法に觸れたるものを嚴罰す可きのみと思へども或は臨時の手心にて之を防がんとするか、既に手心とあるからには其設立を許すも又手心に任して不可なかる可し例へば前節の話に製造所發起人の身元調の如き其人が商賣社會に居り十目の視る所、十指の指す所にて紳商なり豪商なりと云へば願屆も唯公然たる儀式のみにて即日に許可するも人事に妨はなかる可し或は警察上に火の用心衛生の心得などにても大抵發起人の人品次第にて危きを犯すと犯さざるとは推察せらる可きものなり本來手心とは恰も主人が家に處するの法にして家人に留守番を命するに誰れは安心、誰れは不安心と凡そ人撰するに難からざるが如し左れば政府の筋にて會社設立の許可を一切法に任して毫も情を見ず出願次第に之を許して設立の後法律に觸るるあれば直に罰して容捨なしと定るか、又は手心を以て其事情を察し時として許し時として許さずとするか何れにても苦しからず唯手數を簡にして速に可否を决し人民をして時を空ふせしめざるの一事のみ我輩の願ふ所なり啻に時を空ふするのみならず商人の資本金は時を期して二重にも三重にも働くものにて其味は學者などの得て知る所にあらず故に彼の製造所の地面を買入れて建築するにも前以て時を期し資本金の用意もあることなるに願屆の滯りより日を空ふするは取りも直さず金を空ふするに異ならず其難澁は如何ばかりなる可きや民業を重んずる政府に於ては充分の注意を要することなる可し