「米價論」
このページについて
時事新報に掲載された「米價論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本開國の以前に在りては百般貨物の賣買も内國至狹の範圍内に限られたれば聊かの原因
にても忽ちにして市塲の物價を動すを免れざりしなり就中米の一品は當時其變動の最も敏
鋭なりし者にして適々不作の兆候もあるに於ては其價直忽ち騰貴して際限あることなけれ
ども去迚外國米の來て之を引下ぐるにも非ざれば貧民食なきに苦んで餓〓路に滿ちたるの
慘状は毎々なりしも農家は其割合に疲弊を感せずして却て米價の騰貴に思はざるの潤利を
得たるは所々皆然らざるなし諺に百姓は豐年を祝せずして運年を悦ぶと云ひしも此邊の意
味にして農家の爲めには不幸中の幸にして封建鎖國の法偶然これに僥倖を與へたるの次第
なれども開國以來右の趣は一變し國内若しも凶歉を告ぐる塲合のなれば外國米の來りて缺
を補ふあり其商機の敏鋭なる上に加ふるに電信汽船の便利以て聲息を助くるが故に米價今
日の勢ひは縱令へ大抵の凶年不作あるにもせよ或る一定の範圍を踰えて著しき騰貴を現す
る能はざるは數に於て明白なる可し先年内地不作の折柄臺灣若くは西貢地方より續々米を
輸送し來りて幸に米價の騰貴を制し當時我國人の其恩惠に浴したることは世人の知れる所
にして即ち南京米の名は專ら是時より始まり其後も引續き多少の輸入ありしなれ共内地は
年々變ざるの豐作にして米價居坐の模樣なれば一時市塲の勢力を得たる南京米も今日は殆
んど其跡を絶つの衰况に陷り一昨年中の輸入金額は僅々二萬圓に足らず昨年の景况は未だ
詳ならざれども之に較べて大同小異ならんと云へり斯く南京米の受渡しに減少を來したる
は何故なりやと窃に其原因を考ふるに他に一二の理由もあらんかなれども第一に價格と米
質と相較べて所詮日本米に競爭の見込なきこと全くの主因なるが如し盖し明治十三四年の
頃に在りて一石の米價爾かも十圓臺に上りたるは非常の勢なりしと雖も是れ唯銀紙間の差
より斯る相違を來せしまでに過ぎざれば當時にも正金に對する米の實價は依然として不廉
ならず隨て外國米の輸入とては歳々衰微に赴くの一方のみにて之と同時に内地の米價は獨
り進まざるのみならず都て低落の傾なるが故に全國の農民、言替れば三千八百萬人中其十
分の六以上の人は戚々として首を病ましめ、年適々豊饒にして庶民却て究乏を嘆ずるの變
相なきに非ざるなり開國以前の凶〓に會して利澤を得たる農民の僥倖は海外貿易の盛んな
る今日に再びす可らざるの夢と知る可し
前〓の次第なるが故に今の米價の勢ひは獨り外國米の輸入を防ぐに足るのみか更に自然の
勢ひに放任して追々外國に出で去るの傾なきにも非ず試に既往數年間の統計を見るに
明治十三年 二一〇、八六二圓
同 十四年 二六一、七三七
同 十五年 一、六五二、〇四〇
同 十六年 一、〇〇〇、九四〇
同 十七年 二、一七〇、六七八
同 十八年 七六六、七五九
同 十九年 三、三〇〇、五九八
右の表に據るに日本米の海外輸出は年々搆クなきに非されども既往六七年の間を平均すれ
ば次第に其額を揄チする者と稱して可なり昨年中の輸出額は幾何なりしや未だ其統計を詳
にせずと雖も米穀輸出商人の所説に從へば昨年は决して一昨年より其額減少の氣遣ひなき
のみならず海外市塲年を逐ふて日本米の賣行を促すの今日なるが故に實地の統計を調べた
らば必ず著しき搖zを看出すことならんと云へり是より先き明治十一年には米の輸出額四
百萬圓以上に達したることあれども此年度は恰も支那内地の大饑饉にして彼地の米價騰貴
したるより忽ち輸出の途を啓て右の變相を顯はしたる次第なれども更に其以前に溯りて當
時の輸出額を如何にと云ふに寧ろ僅少なる者にして多きも七八十萬圓に上らず又少きに至
りては二三萬圓の年額なりしなれば今の輸出とは素より同日にして論ず可らず試に一昨年
の輸出額三百三十萬圓に就て其實行の重なる市塲を區別するに
英吉利 六二五、五七七担數 一、四〇六、三六四、五三〇圓
獨 逸 一六七、五七九 四一一、二四九、九〇〇
佛蘭西 五五、八七四 一五二、八四五、四二〇
以上歐洲向
朝 鮮 二一八、五七二 四八三、〇三七、八八〇
支 那 五五、八七四 一五二、八四五、四二〇
露領亞細亞 三〇、六六六 六九、八九五、四六〇
以上亞細亞向き
濠洲諸嶋 一二九、三〇二 三九三、八五四、四〇〇
次に海外諸國に出る所の日本米を各港に依て區別するに~戸濱長崎の三港よりして各一
箇年の輸出額表左の如し(明治十九年調査)
~ 戸 百七十五萬八十三圓
濱 十六萬三千四十一圓
長 崎 百二十八萬千七百四十三圓
右の外大坂函館等より出る所の米穀あれども其數僅少にして擧ぐるに足らず(未完)