「鐵道乘車切手の改良を望む 横濱本町一商人投寄」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「鐵道乘車切手の改良を望む 横濱本町一商人投寄」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

鐵道乘車切手の改良を望む 横濱本町一商人投寄

鐵道は線路の延長に應じて倍々便利の働きを爲す者なれども他の方向より顧みれば同時に

種々の不便利顯はれ來りて乘客の苦状も少からず現に小生の實驗に於て明白なるは外なら

ず今を距る數年前日本鐵道會社の工事未だ起らずして僅々東京横濱間十八英里の線路のみ

開け居たる當時に在りては前後一時間の汽車の乘詰めに左ほど不便を感じたることもなく

駕籠人力車の昔に較べては轉た時間の立易きを惜むの想ひありしに既にして鐵道は品川よ

り東京の裏手を經過し日本鐵道會社の線路赤羽に通じて一線は高崎前橋より更に官線に接

して碓氷峠の麓なる横川までの連絡も通じ他の一線は大宮より宇都宮白河と追々北方に線

路を進めて昨年十二月に彌よ彌よ東京仙臺間の鐵道全通したるは即ち線路の延長に應じて

便利の働き多々倍々顯はれたる者ならんとして我輩は爾来商用を兼ね横濱より數回福嶋仙

臺の邊に往復を試みたるに從前東京横濱間を上下したる時とは案の相違にして物に觸れ事

に當り種々の不便不都合を感じたる其一二を擧ぐれば白河以北は冬季大抵降雪曇天ならざ

るなく氣候最も凜烈たるに客車の製甚だ簡易にして乘客に温熱を與ふるの仕掛如何と云ふ

に西洋北地の鐵道の如く蒸汽筒の設けあるにも非ざれば二百餘英里の鐵道に十二時間の乘

詰めは四肢寒に迫られて殆んど凍死の思を爲したり其外客車の中は湯茶の振舞ひは申すに

及ばず冷水一滴をも得る能はざるの始末にして或は辨當さへも宇都宮邊に於て早くこれを

購はざれば仙臺までの空腹を忍ばざる可らず將た寒中旅客に温熱を與へざるの苦状は姑ら

く問はざる所とするも之に反して夏期に至らば炎熱の苦は如何なる可きや元來日本の鐵道

は狹軌條の法式なるが故に客車の作りも大なる能はず隨て天井低く横幅狹ければ從令へ鐵

道の速力、風を切て駛るにもせよ夏中の旅客は必ず冬季よりも一層の苦状を唱ふることな

らん迚我輩聊か掛念したれども右の事は措て論ぜず唯爰に我輩の一言を欲する者は現行の

乘車切手法未だ手順を盡さずして乘客屡々其不便を訴ふるの一事なり盖し現今の鐵道乘車

切手は東京横濱間に行はるゝ上中等往復定期兩切手を除くの外は一切片道切手にして其日

限りの者のみなれば例へば横濱より仙臺間に商用ありて途中各所に上下する塲合には停車

塲毎に一々切手を買直すの必要あるは言ふに及ばず折角買求めたる切手にても何にか所用

の爲めに一日の出發を遅延すれば無効たるを免れず或は如何に長距離の鐵道を乘用するも

其賃錢に割引なく切手買求めの法の如きも寧ろ手間のみ多くして實際事を缺くの不便利は

なかる可きや我輩乘客の資格として大に今の乘車切手法に改良を望まざるを得ざるなり

我輩素人流の考に於て取敢へず先づ左の數種の切手發行を祈る者なり

 第一下等往復切手 東京横濱間に就て之を言ふに現在上中兩等にのみ往復切手を發行し

て獨り下等に及ぼさゞるは如何なる精神に依る者か我輩その旨趣を詳にせずと雖も日常商

人の乘用するは重に下等客車なるが故に序に下等の往復切手をも發行せられ度きは商人社

會一同の祈願なり其他日本鐵道會社の線路に對しても情願は同樣なり或は下等客車にまで

往復切手を出すとすれば更に其賃錢をも割引せざる可らず斯ては最低の賃錢を更に其上に

減價するの道理にして營業上利益に引合はさるの次第なれば其事行はれ難しとの議論もあ

らんなれども元來往復切手の用は賃錢の割引を望むと云ふよりも一度切手を購へば上下徃

復兩度の用を兼帶するの簡便主義を旨としたるに在る者なれば我輩は敢て其減價を望まず

片道賃錢の二倍を有の儘に支拂ふて不都合なきが故に急に下等往復の切手を發行して我々

の手間丈けも省ぶかれんこと希望に堪へず

 第二里數切手 西洋諸國就中米國に行はるゝ切手法中の最も便利なる者は里數切手なる

こと彼地に遊びたる人の實驗に於て明なる可し此切手の所有者は發行鐵道會社の線路内孰

れの停車塲より上下するも全く其人の隨意にして唯乘用里數の多少に從ひ豫て會社の發行

したる切手帳より車掌其里數丈けの切手を切取るの仕組なり例へば東京仙臺間を往復する

にも或る時は宇都宮にて車を下り、用を果して再び同所より東京に引返し更に高崎に赴き

て其地の商用を終り次第逆に戻して更に宇都宮福嶋より仙臺に向ふなど云ふの所用は我々

商人には毎々珍らしからぬ話にして斯る塲合には往復切手定期切手も恃むに足らず里數切

手發行の我々社會に必要なるは此點に在るものなり

 第三乘數切手 東京横濱間には現今上中等の定期切手あれども此法は定期中乘客の日々

乘車すること多ければ多きほどに其人の利益を爲すに反對して若しも事故疾病あるがため

に往復を怠る時は切手所有者は又夫れだけの損失を受ざる可らず特に日本の如きは人事の

活動西洋諸國と趣を別にして自から一種悠緩の所もあれば定期切手を購ふにもせよ日々繁

く使用するに非ずして其間切手を遊ばせ置くは無益なりと人情これに制せられて其使用今

日廣く世に行はれざるは無理ならず乘數切手は之に反して百回五十回各其乘用の度數に應

じ永く使用するを得る者なれば縦令へ事故疾病なるが爲めに暫らく其用を廢止にするも定

期切手の如く其所有者に損失を與ふるの恐れなければ往來の繁劇なる地方例へば東京横濱

大坂神戸間の如き線路には我輩寧ろ定期切手よりも乘數切手の發行なかる可らずと信ずる

なり(未完)