「鐵道乘車切手の改良を望む」
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時事新報に掲載された「鐵道乘車切手の改良を望む」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
(前號の續き) 橫濱本町 一商人
一組合切手 西洋諸國に於ては諸鐵道會社の線路交々接續して數千百里に及ぶが故に豫
て乘客の便利を圖り何れの線路にも通用の切手を發行するを例とす此法は旅行者に取り各
會社線路の變る毎に一々切手を買直すの必要なければ誠に重寶便利にして特に鐵道線路の
交互錯綜するに從ひ諸會社の間に右の打合せある可きこと大切なり數年前までは小生も別
に日本に於て組合切手發行の要用を感ぜざりしに先般來橫濱より奥羽筋に所用あつて出張
の折柄品川までは官線鐵道の切手にて乘車したれども品川にて日本鐵道會社の線路に乘替
へ仙臺地方に赴くには又改めて切手を買はざる可らざるに依り恰も二重の手數を費したる
は小事なるが如くなれども同時に組合切手の必要を感じて軅て小山の停車塲に達せし頃左
右に新線路の蜿〓遠く走るを見て人に問へば一は兩毛一は水戸鐵道の線路にして工事落成
も近きに在りと聞き更に倩々思へらく若し兩野常總の間に所用ありて今後鐵道旅行を爲す
の曉に早く組合切手の發行あらずとそれは僅々數十英里間の鐵道に少くも三度以上は切手
買直しの面倒ある可し東北近縣の景况既に然り更に縣西の地方には四日市、大坂、關西、
山陽の諸鐵道陸續起りて九州鐵道も之に連絡せんとするの今日なれば他所は兎も角も差當
り先づ京濱間の官線鐵道と日本鐵道會社の線路との間に組合切手を發行し以て他の諸線路
に其先例を示さんこと我輩の希望して已まざる所なり
一車掌切手 發車時間に先つこと數十分時空しく停車塲に詰掛けて欠伸に時を費すは文
明人の事に非ず我々商賣社會の人にして平生汽車に乘慣れたる者は時計に時間を引き較べ
分時を爭ふて停車塲に入るや否や列車に乘込むは毎度なり米國抔に於ては斯る者の便利を
計り車掌切手を發行し從令へ切手賣捌所の時間に買後れたる塲合たりとも尚ほ乘車を得る
の都合なるは民の工風と云ふ可し右は旅客に付ての便利なれども傍ら鐵道會社の經濟を考
ふれば人口の稠密ならざる地方に於て特更停車塲を置くにも足らず去迚之を廢止にすれば
近傍人民の不便たる塲合には暇りに小停車塲樣の者を設け驛長其他の掛りも置かず車掌若
くは巡視人より臨時切手を賣渡して旅客に乘車せしむるの方法は會社の爲めには費用少く、
旅客の爲めには便利多き銘策なり日本國にも追々鐵道線路蜘網を引くの時節には適々停車
塲を置くに足らざるの地方にも尚ほ此法を用ひて鐵道を利せしむるの手段大切なりと云は
ざる可らず論者は或は日本客車の製造は米國の其趣を殊にするが故に車掌切手の發行も日
本に行はる可らずとなすか若し此言の如く日本に於ては車掌に其事務を托す可らざる者あ
りとすれば巡視人なり切手領収人なり代て切手の發行を扱はしむるの方法は如何やうにも
變通して工風し得可し其邊は掛念に足らざるなり
右の外尚西洋鐵道切手の種類を算へたらば其數枚擧に遑あらず例へば美室車切手の法の如
きは旅客特別に美室を得んと欲する者の便利には欠く可らざる仕組にして方今日本の上中
等と稱する客車も車中に蒸汽筒若くは火爐の設けあるにも非ず又飮水淨手の供給も備はら
ず唯尋常の下等列車に異なる所は乘組の人員少くして塲席に餘裕あるの一事の外は寧ろ殺
風景の待遇なるが如し勿論西洋諸國の汽車なりとて車中別段の興趣向はなき者なれども米
國などに於ては特に旅客の爲めに美室車を設け車中には火爐水桶淨手鉢は申すに及ばず厠
室も備はり專ら旅客の快樂を旨とし其賃錢の如きも五十英里以内の旅行には特に一人五十
錢又百英里以内に渉れば同く七十五錢を課するの法なるが故に旅行者は汽車中に在りて左
までの不便不都合を感ぜずと云へり日本にても東京仙臺間など長距離を往復するの列車に
は美室車を設け同時に其切手を發行したらば我々旅行者の便利果して如何なる可きやと彼
れを思ひ此に較べて大に所望の念なき能はず總じて物は其類を多くするに從ひ便利倍々增
す者なれば鐵道乘車切手の法も今の如く單一無變化なる者と又其種類を多樣にして適宜旅
客の求めを容易にするとの相違に於ては便宜素より同日にして論ず可らず左れば西洋諸國
の鐵道に於ては或は世人の避暑遊覽を便にする爲め若くは博覽會、兵師操練、演劇等の催
しある毎に回遊切手〈エキスカルシヨンチツケツト〉を發行し以て旅客を聚むるの工風を
爲すは毎々にして價格も尋常の往復切手よりは幾割を引下げ種々、時の嗜好に投じて利益
を圖るは彼地に遊びたる人々の實驗に於て明ならん日本に於ても本年の夏に至らば東北地
方、鐵道交通の便利なる所にして上州には伊香保磯邊、野州には日光鹽原更に福嶋縣下に
至りては飯澤近傍の温泉より轉じて宮城に入れば青根其他著名の浴塲山水明媚の地も亦多
しと云へり左れば日本鐵道會社に於て以上各所の温泉廻りを爲さんと欲する人の爲めに回
遊切手を發行したらば定めて旅行者も多かる可く現に小生の如きは今より豫約者の一名た
るを望む者なり
右は全く我輩素人流の考へに於て乘車切手に此れ此れの種類もありたらば便利ならんと窃
に想像を描きたる者なるが故に其所説大方の笑を免れざる可きは覺悟なれども實際の工風
は兎に角に一種にても二種にても多く切手の種類を殖し以て我々旅行者の便利を促されん
こと希望に堪へず因て一言を呈して貴紙の餘白を假らんと欲す、若し聽されなば幸甚なり
明治廿一年一月十五日 橫濱一商人
時事新報汽車先生足下 (完)