「法律復古の色あり」
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本文
法律復古の色あり
今日泰西の諸國に行はるゝ所の法律を見るに文繁くして箇條多しと雖ども社會生出の昔よ
りして然りしには非ず初めは只簡略なる習慣規約のみにして未だ法律と名くべきものもな
かりしが月を累ね年を經るに隨ひ次第に發達成長して單より複に入り粗より精に移り遂に
今日繁文の世に馴致したることなり故に當初人事の總て簡易なりし世には判官状師など申
すものさへなきほどの次第にて私權に係る民事の訴も多くは私の計らひにて事濟みとなし
たる其方法はあーびとレーシヨンと稱へ人民の間に爭の起るときは原被臨時に人を撰んで
當座の長に仰ぎ、仰がれたる長は雙方の言ふ所を廳いて成敗を定む而して此聽斷の任に當
る者の數は一人のこともあれども大概は二人若しくは三人にして或は甲と乙とより各々一
人を撰出するもあり其振り合ひこそ一樣ならざれ民事私權の訴訟に公然たる裁判所の助を
借らざるの精神に至ては彼此異同あることなし
斯の如く昔しの制なれば民事の爭ひ一度は必ずアービトレーシヨンの手を經るものなれど
も現行法律の仕組にては苟も私權に關することあれば直ちに之を表向きに出して裁判沙汰
となし状師を雇ひ判官に請ひ裁判の手續さへ頗る錯綜して費え多き上煩雜に堪へざるより
東西諸國の人々をも追々に思ひ當り今の法律に由て一切民事の爭ひを定むるは不便なる事
なりと唱へ出すに至りたるも亦謂れなしと云ふ可らず其法網の密にして條文の繁なるが爲
めには裁判に時日を費し些細至極なる事件にても數週間數月間に亘らざれば落着し難く夫
れ是れと日月を經る間には隨て消費する金も代言書面などより役所の支拂ひ、掛り員の給
與等に至るまで其高决して少なからず殊に愍笑すべきは其民事たるや金錢土地又は損害の
償を要むるの爭ひなれば多寡の數の明白なるものに付き起訴の點となしたる金高よりも裁
判に費えたるものゝ方が却て超過して直に損得の相償はざりしことを發明して驚くが如き
奇談は决して珍しからず又或は裁判に日を移す間に大切なる原被の本人は何時しか影を失
ひ訴訟に縁なき代言人と代言人との爭論となりたるは猶ほ忍ぶべしとするも消費したる金
は原被自から拂ふて其身に厘毛の得なかりしなどの變相も亦多し奇極まれりと云ふべしさ
ればにや泰西諸國にては既に此不都合を悟り行々改正を行ふの事實を見るに至れり今この
一證として近日發兌の米國新聞より抄出すること左の如し
アイオワ州にては豫ねてより勸解裁判所なるものゝ設立を企て黨派の異同を問はず全州
一致のうへ彌々次の州會に於て其條例の發布を可决せんものをと昨今專ら計畫の最中なり
本と此勸解裁判の法は璉國にて實行し年久しく十分に試みたるに其成績頗る著しかりしも
のにして今之を概記するに一州一州にて各々州限りに訟廷を定め之を勸解裁判所と稱し通
例判官は一人にして陪席二人の定めとす此三人は州内に地位を得て信用淺からず才徳勝れ
て能く訟を聽き公平無私なりと云ふを以て普く人民の推擧する所となるものなれば其地方
にて凡そ民事の訴を起すに足るべき公事に就ては皆此訟廷にて裁决の權を執り一たび此訟
廷に出して勸解不調となりたる後に非ざれば决して通常規定の裁判所に越訴すること能は
ざるの約束なるが故に一切の事件總て民事の訴を起す可きものは刑法に係るものゝ外必ず
先づ此訟廷に赴き原被躬から出頭して各々其始末を申し立て入用とあれば證人を出すこと
は叶へども其訴訟に縁なき代言を許すことなし斯くして掛りの人は雙方の情を盡して訴を
定め原被何れも其成敗に服すれば則ち爭ひ茲に止みて其判决の効力は少しも公の裁判所よ
り出づるものに〓〓らざれば裁判に費すべき手數料は全く省き得たるものなり若し此訟廷
の効力薄ければ勸解裁判の仕組も徒法たるを免れざるものなれども事の實際に徴するに民
事の訴は十に七八勸解裁判の成敗に由て定まるものと見え現に璉國にて此制を用ひたる當
初五年の間に勸解裁判に提出せし訴件は十一萬六千四百八十三にして其内七萬四千七百四
十二は勸解にて調ひ又第二期の五年間には訴件十九萬八百三十六にして内十二萬一千九百
七十件は其成敗に由て事濟みたるに付き不調となりし分は至て僅少なる又その上にも不調
となりしものゝ半數こそ公に持出したりとぞ今アイオワ州に於て採用せんとする所の制度
は即ち件の如く璉國に行はれて成績の觀るに足るべきものなりと云ふ
前記抄出の一節を讀下すときは開化文明を以て世界に鳴る所の人民すら尚且つ發達成長し
來りたる今の法律を見て其民事の訴を定むるの効は更に古制に優る所なきのみならずアー
ビトレーシヨンの仕組こそ慕はしけれとて只管復古を祈るの色あるが如し是れも一時の發
心ならんには頼むに足らされども年月の久しき經驗に經驗を積みたる後のことなれば彌々
今の煩はしく古の尚ぶべきを見定めたるや盖し疑ひある可らざるなり
今日歐米の間に斯の如き事實あるを以て考れば日本人の爲めに謀りて更に一案を運らすも
亦甚だ大切なることなる可し今や當國は民法編纂の最中にして民事の訴に於て人民各自の
私權を全ふせしむるには如何の法を設けて如何の處分を施すべきや皆其標準を外に求めて
歐米諸國の制に由らんとすることならん若し此際に當り今の法の錯綜煩雜にして彼國にて
は既に之を持て餘すの色あるを忘却することもあらんには日本の爲めに誠に惜しむ可きこ
となり近く顧みて舊幕時代の制度を觀ればアービトレーシヨンと云へる名こそなけれども
其精神に違はざる仕組は十分に行はれたることにして既に璉國に試みて成績の著しく將さ
に米國の一方に採用されんとするものと互に相伯仲せるものなれば今日、日本にて民事私
權の儀に關し新に制度を立つるに方りては先づ璉國に行ふたる制度の跡を擇ねて參考に供
するは國の爲め萬世の法を立る者の注意すべき點なる可し日本人民は開國を距ること未だ
遠からず猶ほ徳川の法に馴れて餘韻を脱せざる時なれば此時こそ屈竟なれ若しアービトレ
ーシヨンの仕組にして今の錯雜を極めたる組織よりも便利なるを知らば百事泰西の制を模
して新法を立つるの折柄その一部分として數百年來馴れたる制度即ちアービトレーシヨン
の仕組を保存するは日本人民に取て殊に易々たる業ならんのみ
世人の知る如く璉國は歐洲列國の中にても能く治まりて開化の進みたる國の一に非ずや此
國已にアービトレーシヨンを行ふて勘解裁判の結果宜しきを告げたり今や又北米合衆國の
一部にても與論に由て勸解裁判の設立を决せんとせり日本にして其美に倣ひ複雑の法を未
然に避けて人民の身に覺えある簡易の制を設くるに於て何ぞ猶豫すべきや若し否と云ふ者
あるも余は其理由を知らざるなり
ドクトルの稱號姓名の原字はDr. D. B. Simmons. にて日本人は之を呼んでシモンズと云ひ
又セメンズと云ひ過般以來本紙にはシモンズと記したれども同先生が舊幕府時代より我國
に在留して廣く内外人に治療を施し又横濱の十全病院を創立したる等その長き歳月中に多
くはドクトル セメンズを以て通稱されたるが故に今後は其通稱の廣きものに從て本紙に
もドクトル セメンズと記す可し先生は醫學を外にして博識多聞、常に文明の進退人事の
成敗に注意し日本の在留前後殆んど三十年その醫を業としたるこそ偶然の便利なれ廣く日
本の上流社會より下は最下最寒の下等人民にも接して日本社會の有樣は其表裏陰陽一とし
て詳にせざるはなく方今我國在留の外國人中誰れか能く我國情に通達するやと尋たらばド
クトルこそ屈指中の一名なる可し既に日本の事情を悉して前年は特に支那印度地方に旅行
し多く人に交りて其民情風俗を探り發明したる所も少なからずして目下その収録を以て樂
事と爲し又日本の時事に就 隨時知友と談論し又筆記する所は外客公平の眼を以て内國の
形勢を看破するものにして吾々日本國人の爲めには俗に云ふ燈臺もとくらしの迷霧を拂ひ
時として耳目を新にすること多し
ドクトル セメンズ原文 小野友次郎翻譯