「蠶業に對する豪農小農の進退」
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本文
蠶業に對する豪農小農の進退
數年以前國内の養蠶地方と稱したるは信州上州其他三四の處にして指を屈するにも足らざ
るの有樣なりしに年々輸出の道盛んにして海外の需要多々倍々辨ずるの勢ひなるより世人
始めて蠶業の利益に驚き、桑を植え繭を作るに汲々として日一日も後れざるを務むる其趣
は日本全國恰も申合せたる如くにして自今數年の後に至らば豫て我輩の所望通り日本産の
生絲を以て普く米歐人の需要を充たす可き機會到來は疑ひなしと信ずるなり昨年中福嶋縣
下信夫郡の一小村落に於て五百萬本の桑苗を賣出したる由は過日の時事新報に論の序を以
て記載〓〓〓所なるが近頃岐阜縣下よりの報に據れば昨年中同縣全管に新規桑苗を植付け
たる其數は二千餘萬本なりと云ふ苗の種類は善惡種々にして植附けの巧拙も多樣なる可き
は勿論なれども兎に角に一縣下に二千萬本以上の桑を植ゑたるは實に此業の隆盛を表す可
き者にして三四年後の濠州は殆んど信州上州等にも劣らざる養蠶地方に變ずるならんと云
へり此れは全く岐阜一縣下の例なれども其他關西中中國四國九州の邊に至るまでも養蠶の
氣運の盛んなるは毎々時事新報の紙上にも見ゆる如くにして其進歩の迅速なる殆んど氷上
珠を投ずるの勢ひに異ならざるなり
然るに今日斯く遽しく養蠶事業を營み始めたる人々を如何なる種類なりやと尋ぬるに財産
名望を兼ね備へて地方屈指の紳士と呼ばるゝ者なきに非ずと雖も此等は少数にして滔々た
る今の養蠶着手人は資本も乏しく智識もなく唯世間の流行に乘せられて數段の田園に桑を
植ゑ、坐して得々たるの輩ならざるなし左れば地方到る處に桑苗の植附け甚だ盛んなりと
云ふ報を聞て偖は在來の豪農地主が頓に米耕作の迷夢を破り一念開發、心を桑門に傾けた
る者ならんかと徐ろに實際を窺へば斯く新規に蠶業を執らんとするの輩は僅か數段の田畑
を所持する小農夫か或は然らざるも舊藩士族の向に於て猫額大の宅地内に桑を植うるの類
に過ぎず一人一人に就て考ふれば赤手事を成すの次第にして甚だ微々たるが如くなれども
塵積れば山と爲るの喩へに洩れず一村一郡遂に全國に及ぼして其事の盛んなるは正に今日
の状態なりと雖も倩々裏面を推察すれば豪農とも云はるゝ人は依然米耕作に戀着して進取
の氣力を缺くが爲めに養蠶事業の利益をして獨り小農民の手中に歸せしむるの有樣なきに
も非ず人事盛衰の變極まりなき今の時勢に充分の資本は有りながらも先見の明に乏しくし
て蠶業に身を委するの機會を誤まり他年一日後悔の時に際會して臍を噛むも及ばざるの禍
を招くは判然爭ふ可らざるの事實なれども地方各所の豪農中能く此點に着眼したる者の少
きは我輩の窃に遺憾とする所なり適々地方一二の資産家にして自から蠶業の魁を爲し他の
豪農者を率ゐんとする者あるも絶て効驗あることなく甚しきに至りては其有志家なる人物
が却て世に投機者視せられ豪農同族の間にも信用を失するの奇禍に罹ると云へり隨て有志
家も人に蠶業を勸むるの忠言を憚りて豪農者は倍々頑迷固執に陥るの一方なるに彼の小農
民は亦唯漫に養蠶の熱に狂奔し一攫千金の利も容易なるが如くに信じて殆んど無分別の境
に達せんとするの状況なるは豪農小農各極端に馳せたるの結果にして國の經濟の爲めに計
るも悦ばしき事相なりと云ふ可らず前條地方の金滿家が保守因循に陥り新に蠶業に着手す
るの决斷力あらざるは外に致し方なしとして姑らく論せざるも彼の小農民若くは貧士族が
唯單に桑の相塲を主眼として窃に其賣買ひの高價を期し、桑苗は植ゑたる者の去迚自家に
養蠶するには充分の人手もなく又其資金にも乏しくして結局賣るより外に手段あらざるの
始末にては此等の人の前途果して如何なる可きや今の桑の相塲の儘にて向後下落せざる者
ならば其植附けも至極の銘策なりと雖も徒に之を作るの一方のみにて同時に使用の途を開
かずしては其價の著しく減ず可きこと當然の理なるが故に桑の賣買をのみ目的として今日
盛んに之を植うるの人々は數年の後ち計算齟齬して大失敗を蒙むるなからんとも云ふ可ら
ず例へば昨年中全國に植附けたる桑の苗數を大數一億と看るも中に苗の疎末にして培養の
法亦宜しからざる者多しと聞けば假りに其半數を生立ち得たる苗樹として取敢へず五千萬
本の桑の供給は増す可き勘定なれども同時に他の一方に充分これを消費盡すの溝路あるこ
となるや自家に桑を植えて又自家に蠶を養ふの力ある者は兎も角も實際然らざる多數の小
農民が桑相塲より漫然植附けを爲すの手段は遠からず反〓あるに相違なければ今に及んで
豫防の策を運らすも亦大切の次第なる可し
右の如く地方今日の實状は養蠶事業に對する豪農小農の擧動進退恰も互に反對して一は
倍々因循退守米耕作を株守して養蠶業を投機視するの趣あれば一は又蠶業の何たるをも辨
せずして只管世間に雷同し、前途の慮り未だ立たざるに早く桑を植えて悦ぶの状況なるは
兩つながら我輩の取らざる所なれども就中豪農者の頑固にして殆んど蠶業に抗するの色あ
るに至りては我輩獨り其愚を笑ふに止まる能はず國の經濟の點に於て大に之を惜まざるを
得ず然るに近來は又思はざる出來事より轉た豪農者の迷夢をして一層深からしめんとする
のみならず併て小農民を誘ふて養蠶進歩の大勢を遮ぎらんとするの奇相あつて社會の一部
に勢力を占むるが如き最も我輩の不同意なる所なれば次に記して世論に訴へんと欲するな
り (未完)