「紡績所の絲を如何せん」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「紡績所の絲を如何せん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

近來外國より器械類の輸入盛にして、陸軍海軍に屬するものは之を外にし、官私鐵道用の軌條、機關車を始と

して、或は製紙器械、製油器械と云ひ、或は煉瓦製造器械、紡績器械と云ひ、續々外國に注文して我正貨を輸出

するもの少なからず。我輩敢て貿易上に貨幣を愛しむ者にあらず、有用の器械を買ふて製造を興し、其器械の代

價を償ふて尚ほ利する所あれば誠に滿足する所なれども、器械の有用無用に論なく、之に由て製し得たる其物産

を人事の用に供するに當り、果して其用に適當して不都合なかる可きや否やを思案するは、甚だ大切なることと

信ずるなり。一家の世帶に二升の飯を炊ぐものが、五升たきの大釜を求めて竈を築くは却て不便利なり。一町内

に一軒の湯屋にて不足なかりし處へ、更に新湯の開業は、從前の客の數を半分にして雙方共に立行かざる可し。

此道理に等しく.今日盛に輪入する器械の内には、其使用を始むるに及んで、或は小世帶に大釜の嘆を爲すもの

はなかる可きや、或は一町内に二軒の湯屋の不都合はなかる可きやと、聊か杞憂なきを得ざるなり。今その一を  

*三行読めず*

*一行読めず*

要は、大數凡そ十六萬俵を以て滿足したるものなり。然るに近來諸方に設立し又設立せんとする紡績所は、殆ん

ど流行の勢を成して、其數、指を屈するに遑あらず。確なる豫算は明言し難しと雖も、若しも今日の發起の通り

に設立し了りたる上は、其製造高は合して一日五百俵に下だらざる可し。卽ち一ヶ月に一萬五千俵、一ヶ年に十

八萬俵の高に上る可し。此高にても從前の需要に超過すること二萬俵にして、處分に困る尚ほ其上に、綿絲の種

類は一番より三番まで三種に分ち、一番に屬するものは四十二手を最も細き絲として、夫れより四十手、三十八

手に至り、二番は三十二手より三十手、二十八手とし、三番は卽ち二十四手より始まり二十二手、二十手、十八

手、十六手に終る。斯の如く三種十一類卽ち十一手にして、此内にて日本の需要多きは粗大なる二十二手より十

六手までにして、其數のみにて凡そ他の半を占め、又これまでの紡績所にて製するものも二十手、十八手、十六

手の三類を最も多しとす。其然る由緣は、器械の粗なるにはあらざれども、原質たる綿の性質に於て精細の絲を

製す可らざるが故なり。殊に一番二番のものを紡績せんとするには、必ず其原質を亞米利加産に求めざれば叶は

ざることにして、我國にては今日まで之を試みたるものもなしと云ふ。左れば今後全國各地の紡績所が意の如く

出来して、いよいよ日に五百俵の絲を紡績し出すとして、其絲の種類は如何なるものを擇ぶ可きゃ。從前の如く

二十手、十八手、十六手の絲のみを製するときは、一年に迚も十八萬俵の需要ある可らず。瑕令へ或は亞米利加

より原質を輸入して細手のものを作るとするも、尚ほ需要に超過するのみならず、外國の輸入を仰いで内國の工

業を起すに就ては、自から多額の資本を要することなれば、其利子を計算して尚ほ至當の所得ある可きや。我輩

は少しく躊躇せざるを得ざるなり。曾て聞く、英國マンチェストルの紡績所は世界有名の大組織にして、資本の

豐なるは無論、多年の熟練を積んで業を營むものなれども、資本に對する利益は一年三、四分以上に上らずとの事

例もあり、かたがた我紡績所の起業者も能く其邊に注意して、業を起すに先だち豫め其生産品の需要如何を考へ、

前節に云へる小世帶に大釜、一町内に二軒の湯屋の不利を避けんこと、我輩の竊に祈る所なり。

〔二月二十五日〕