「繁文を省くの説」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「繁文を省くの説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

繁文を省くの説

今の政費を節減して民の負擔を輕くし以て殖産の道を開くは固より願ふ所なれども目下差

向の急は直接の負擔云々を論ずるに遑あらず何は扨置き先づ官民の繁文を除くの斷行なか

る可らずとは我輩の所見にして江湖に異議もなきものゝ如し讀者は本月二十日の時事新報

寄書欄内に遺産相續願屆書と題したる一章を通讀せられて如何の感を爲したるや是れは羽

前國の事にして或る家の戸主死亡して其孫が相續するに付き表向の願屆書圖面を合して三

十五通と後日の證として手扣とも總計五十五通を要し之が爲めに代書料手數料に費えたる

もの三圓に下らず戸長役塲、郡役所、登記所に出入數里の路を徃來し手間を潰し雜用を費

し數日にして漸く事成るに及んで扨その相續の財産たる地面建物の價は如何と尋れば僅に

十圓に過ぎず祖父の遺産を相續して同時に其遺産を空ふしたるの談なり我輩は事の實際を

目撃せざれば敢て此寄書の文を盡く信するにも非ず又日本國中の相續法悉皆斯の如しと斷

定するにも非ざれども此種の事に關して近年著しく繁文を催ほしたるは疑もなきことなら

ん昔年なれば祖父死して子なく孫が相續するは尋常一樣の事にして村の名主庄屋に屆け、

書面が入用なれば庄屋の手にして認め呉れ之に調印するか、印形がなければ是れも宜しく

お頼み申すとて一切萬事立ちながら辨じ簡易至極の手數にて差したる大間違もなかりしに

今日は十圓の貧乏世帯を相續するに何十通の書面と何圓の金を費すとは時勢の變化も亦甚

だしと云ふ可し左れば今日の有樣は所謂人事の整頓なるものにして日本國中何千萬の人口

は其姓名年齢を明にし何百萬の家屋は其大小廣狹を詳にし一目瞭然これを掌に指すが如き

ものにして誠に美なりと雖も其美なるが爲めに何か大に實際に利することあるやと尋るに

我輩を以てすれば之を見出すこと甚だ易からず日本國中の人民を貧富二樣に區別し衣食餘

りありて豐に生活し左まで勞働もせずして安樂なる者は甚だ少なく他は皆其日其日に稼ぎ

其月其年限りの謀を爲す者より外ならず全國十中の八九皆この類なれば之を御するの法も

亦自から其身分相應にして大抵の處までは所謂御大法の大目に見遁し唯これをして勞働の

時を得せしむ可きのみ繁文の法は美なり簡易の制は殺風景なり我輩敢て人事の美を好まざ

るに非ずと雖も之を強ひて勝つ可らざるものは錢の一事にして錢を得んとするには事を簡

にして勞働の時を自由にせざる可らず制度の殺風景顧るに遑あらざるなり之を家作に喩へ

て云はんに座敷向と仕事部屋との如し座敷には客來もあることなれば其裝飾自から繁多に

して美なりと雖ども仕事部屋は實用專一にして甚だ殺風景なり今日の施政も實用專一にし

て未だ裝飾を思ふに遑あらざる時勢なれば假令へ現行の慣例美にして座敷の如くなるも其

裝飾を取除いて仕事部屋の簡易に從はざるを得ず例へば前に記したる相續の一條に付き三

十五通の書面を二十通に減するも實用に妨はなかる可し如何となれば座敷の額面掛物を外

したればとて仕事部屋の實用には差支なかる可ければなり尚ほ之れを減して十通と爲し五

通となし遂に進んで一通にするか或は一をも用ひずして無筆の者ならば口上にて濟し唯役

場の帳簿に記すばかりとまでに至る可きやも圖る可らず兎に角に施政の殺風景を恐れずし

て此手數を除き其體裁を廢し次第次第に簡易に進むこと座敷の裝飾を次第次第に取除いて

座中無一物、純然たる仕事部屋の用を達して止むの覺悟に等しく眼中文華なく唯實用專一

の决心あらんこと冀望に堪へざるなり

以上は我輩が机上の論にして或は實際に行はれざることもあらん今日百般の施政を繁文な

りと云ふも一朝一夕の出來事にあらず多年の變遷に隨て次第に成長したるものなれば今日

其弊に心付きて明日これを全廢す可きにも非ずと雖ど唯苟も其繁を知りたらんには試に其

一を除く可し之を除いて妨なきに於ては又其二を除き二三四五六漸次に試みて最後に至り

最早この上に簡易とありては施政の實際に於て運動す可らずとの極度に止まる可きのみ其

趣は工塲又は商店にて利益一偏の目的を以て人員を減し冗費を省き最後に工業商賣の差支

を生ぜんとするの界に至りて止まるものゝ如し我輩は今の施政をして工塲商店の風に傚ば

しめんこと勸告するものなり