「官邊をして羨望の目的たらしむる勿れ」
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時事新報に掲載された「官邊をして羨望の目的たらしむる勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
官邊をして羨望の目的たらしむる勿れ
貧書生が徒に青雲に志し時事を談して不平を鳴らすの弊を除かんが爲め第一に教育の組織
を變革せざる可らず之を革むるには官立公立の諸學校を全廢し教育を人民の自由に放任し
て學問は錢を以て買ふべきものと定め以て貧富淘汰の實を行ふべしとの次第は前號の紙上
に開陳したりと雖も第二の順序として彼輩が常に羨望する所の目的物の趣を革め左まで羨
むに足らざるものとなし眼を轉じて他に向はしむるの工夫を講せざる可らず盖し其目的物
とは何ぞや他なし官途即ち是なり抑も富貴を欲するは殆んど人生の天賦にして人事の競爭
多くは富貴の競爭に非ざるはなし既に競爭あり貧窮の者が利達の人を羨むも亦自然の所に
して其富貴を羨むの情は轉じて其人を怨むの心と爲り爲めに意外の禍變を惹起すことなき
に非ざれば富貴にして驕る可らずとは古人の戒にして利達自在の身分にても勉めて華奢を
去りて素朴を守り時としては故さらに貧を粧ひ世を欺いて他の羨望を避くるか若くは時に
私利を棄てゝ公益を圖り慈善以て世間の敬愛を買ふの事例少なからず貧人の羨望を避くる
の工夫等閑に付す可らざるを見るに足るべし翻て今の官途を見れば官吏には一種特別の榮
譽を附して之を人民に比すれば自から人權を殊にするの趣あるのみならず其俸給も亦勞働
の割合にすれば平均して厚きものと云はざるを得ず例へば一箇月三十圓の官吏とするも一
年三百六十圓その勞働を問へば吏員甚だ多くして寧ろ事務の閑なるに苦しむ程のものある
よし今若し他の民間にありて職業を執る者が一日一圓の収入を見んとするは中々容易なら
ざる事にして勞働の難易、報酬の多少は彼是相距る甚だ遠きのみか農事と云ひ工業と云ひ
商賣と云ふ何れも皆その収益確實ならずして必ずしも一箇月三十圓を期す可らず時に或は
非常の損耗を來たして身を傾け産を破るの不幸にさへ逢ふことなれば心身を勞する猶その
上に恐るべき危險を犯さゞる可らずと雖も官途は則ち然らず免非の沙汰多少心に關するの
みにして其危險の度は固より日を同ふして論ず可らず故に日本の官途は恰も名譽の靈塲利
益の泉源にして然かも其利益は頗ぶる豐にして確實なりとあるからには尋常虚心の人と雖
も竊に之に望を屬せざるを得ず况んや彼の精神の不相應に發達して名利の外に餘念なき書
生輩に於てをや此靈塲に入て利益を博し以て生計を安くせんとするの情は之を留めて駐む
可らず人情に於て無理ならぬ次第と云ふべし斯る熱心を以て渇望するにも拘はらず一朝蹉
跌して其志を得ざるの不幸あらんか、遺憾骨に徹して忘る可らず窓前燈下不平の一念、胸
臆に徃來して遂に外に發する其趣は恰も水の低きに流れ流れて通ぜされば即ち反て激する
ものに異ならず固より怪むに足らざるのみ左れば今その反激の害を避けんとするの法を求
るに豫め之を導いて激流の方向を轉せしむるの外ある可らず其手段樣々なる可けれども先
づ官途の虚威を鎭靜して人心を和すると同時に其俸給を減じて報酬の薄きを示し又吏員を
省いて事務の安逸ならざるを明かにし彼の貧生をして一歩を退かしめ官途に向て活路を求
むるの不可なるを覺悟せしむるが如きは最も有力なる方便なる可し斯て官邊に趨進する者
は獨り家計豐にして高等の教育を受けたる者に限るの仕組に變じたらんには此者等の士官
は錢の爲めにあらずして名譽の爲めにするものなるが故に事に臨んで地位に戀々し節操を
屈して見苦るしき擧動を示すが如き憂も少なくして官海の弊風その一を除くと同時に又一
方には貧生が漸次に眼を轉じて民間の産業に就き靜に生計を營みて己れを益し國を利し坐
ろに昨吾の非なるを省みて今吾の是なるを悟るときは仕途の熱情次第に冷却して別に官邊
以外名利の地の綽々然たるを發明することもあるべし我輩は既に第一の方法として教育の
組織を改め以て教育費を省くの要を論じ今又第二の順序として官邊の趣を變革し以て政費
を節減するの利あるを知れり今や我國の民力は殆んど疲弊に堪へざるの折柄成るべく其負
擔を輕減して休養の道を行ふべきは勿論資材民間にあれば生産の用をなすべしと雖も一旦
政府に入れば不生産に消費せらるゝを免れざるものなれば理の表面より觀察を下だして政
費節減の一事極めて大切なるのみならず其裏面に於て前陳無量の利益あるを知るが故に表
裏一圖に政費の節減を促がして已まざるものなり