「官吏と財産の關係」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「官吏と財産の關係」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

官吏と財産の關係

世の澆季に赴くに從ひ人情次第に輕薄なりとは漢學者流の常に歎息して疑はざる所なりと

雖も我輩を以て見れば决して左樣のものに非ず固より一時の變相なきに非ざれども文化の

歩を進むると共に人心も亦ますます新にして着々改良の道を辿り漸く完全世界に向ふもの

と信せざるを得ず然るに古今官途に仕進する者の形迹を按すれば或は我輩立言の旨に齟齬

するものあるが如き其次第を述べんに古の人は一般に節操を尚び廉恥を重んずるの心深く

して富貴の爲めに膝を屈する者あれば恰も人にして人に非ざるの感をなし其精神の潔白な

ると共に不潔を憎むの情も亦甚だしく唯単に仕進を羨望するの心ありと聞ゆるのみにても

士君子は之と齒するを好まず況んや權門に出入して自から賣るが如き之を狗鼠の輩と稱し

て尋常普通の交際を許されず其官に出るや營利の爲めにあらずして名譽の爲めにし、目的

とする所は唯平素の志を行はんとするの一偏に在るが故に苟も素志を達すること能はざる

に於ては今日出身して明日その地位を棄るも惜む色なく其出處進退の公正にして淡泊なる

吾人の常に竊に景慕に堪へざるもの少なからざりしに文明旭日西より出で封建の制度こゝ

に廢たれて四民平等の今日となりては士風いつしか之と共に變じ官途を羨望するの情甚だ

熾にして公然これを人に語り自ら怪まず又咎められもせず權門に出入して求るが如きは尋

常一樣の事にして幸いに好地位を得るときは如何なる事情に逢ふも容易に之を去らず利祿

を重んずること恰も連城の璧の如くにして之が爲め時としては官途不相當の外聞さへなき

にあらず即ち今日の事態に於て人の知る所なり

右の如く官途仕進の風を古今相比較するときは恰も表裏反對して今日は是れ世の澆季なる

ものにして人情日に輕薄なるが如くなれども眼を轉じて官途の其人を見れば决して輕薄兒

にあらず數千百年來日本士人の教育に育せられて祖先遺傳の氣義容易に消滅す可きにあら

ず况して開國以來西洋文明の主義に化して獨立の氣風は多少に發達するなきを得ず即ち世

は澆季ならずして日新活溌、先人の及ばざる所のもの多しと斷言して可なり人々個々の資

格を論じ又その實際を叩けば人情輕薄ならずして獨立の氣風に富みながら此人々を集めて

一體を成したる官途の進退如何を見るときは徃々卑屈にして厭ふ可きものあるは何ぞや甚

だ怪しむ可きに似たれども我輩の所見を以てすれば唯是れ生計の然らしむる所なりと云は

ざるを得ず封建の士族は世祿に衣食するが故に其官途に出身するとせざるとは家計を厚薄

するに足らざるのみか其奉する所の役儀の性質に由り却て家計を損するの事例さへ珍らし

からぬ程の次第なれば利益の一方より視れば官途の出身は素より熱心するに足らずして進

退の淡泊なるも亦偶然にあらず之を今時の官吏が無祿無産にして唯在官中の俸給に依頼す

るものに比すれば固に日を同ふして語る可らず是れ即ち士人の進退に今と昔と趣を殊にす

る所以にして其昔に淡泊にして今に濃厚なるは人の罪にあらず勢の然らしむるものと知る

可し左れば我輩が曾て前號の紙上に官邊の趣を一變す可きを論じ上等の官に就く者は獨り

家産豐富の子弟に限り以て貧生を淘汰すると同時に官吏をして公役を全ふせしむべしと云

ひしも竊に此邊の意味を含むものにして古の世祿を以て士風を維持したるの筆法を轉じ今

日は財産に依頼して官弊を防がんと欲するに外ならず故に前年發布したる官吏登庸規則の

如きも獨り學識の點に於て紀律を設くるのみならず財産の高をも亦その一項として加へら

れんと切望に堪へず現行の府縣會に於ても議員たる者は必ず資産ある者に限るの法にして

畢竟寒貧生をして地方政治に關係せしめざるの精神なる可し然るを况んや中央政府の上等

官に貧書生を入るゝ路を開くが如き我輩その可なるを知らざるものなり