「營業者の利害を忘る可らず」
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時事新報に掲載された「營業者の利害を忘る可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
營業者の利害を忘る可らず
當局者が一部の法令を改正するに當り縦令へ其改正の目的は初めより云々ならざるも實際
の成迹を見れば思はざる所に影響を及ぼし其法令の下に立つ人民をして時に案外の不利を
覺えしむるの事例なきにあらず要するに法令改正の其始めに當局者の見る所聞く所適々事
の肯緊を洩らして判斷の材料その宜きを失したるの誤なりと云はざる可らず此誤は不完全
なる人事社會の常として何れの世又何れの人と雖も全く免るゝ能はざること寧ろ普通の法
則なれば凡そ世界古今の政治家として我こそは能く利害の事情に通じたり、判斷の明を失
することなしと己れの至善至能を恃みにして以て法令を改正するが如きは我輩の未だ嘗て
聞知せざる所なり况んや法令に害あることを認めながら其害を民間に貽すを樂みとして強
て之を發布し若くは改正するが如きに於てをや良心ある人間の一切爲し能はざる所なれば
政治上の事柄に此れは云々の惡意を以て施行したり彼れは爾々の害心にて處置したりなど
云ふ其有心故意の如何んを尋ぬ可らざるは勿論にして即ち政治當局者の眼中には唯公正と
云ふ二字の題目外、他に守る所あらざる者と看做して後徐ろに其法令の如何んを議せざる
可らず例へば爰に政府が一種の新税を起すか或は舊税法を改正するの塲合に際しても初め
より此新法改正法の下に立つ所の營業者をして悉く業を失はしむるの成跡ある可きを知り
ながら故意に之を施行するが如きは斷して人間世界にある可らざる事なり故に偶然に法を
敷き隨て其成跡を見れば偶然に民間の營業に大困難を與ふることありとするも歸する所は
人事不完全の結果なりと諦らめて漫に當局者を咎む可らずと雖も然れども又一方より論ず
れば當局の人に於ても自家の智力のあらん限りは自から思案し聞見の許す限りは他人にも
諮詢して萬々の安全を求め最初より心に期せざりし法の結果を見て後に始めて之に關して
聊か爰に一言せんとするは外ならず近時世上の風説にては郵便條例の改正あるやの由にて
其中に新聞紙營業に關する一節、新聞紙を發行地三里外に配附するには郵便局の手を經由
するの他に一切民間私しの配達を禁止する條項も存すと云へり此風説の果して眞なるや否
やは法令發布の後を待たざれば之を知るの方便なけれども假に其筋の間に斯る議論ありと
して之が爲めに實際如何なる影響を來す可きやを尋ぬるに或人の考に各新聞社に在りては
内々の不便は兎も角も其配達の費用は之を購讀者に課する者なれば新法の結果直に各社の
營業を損せしむるものにあらずとの議論をば假に爰に之を是なりとし更に一歩を進めて今
の新聞賣捌、取次人なる營業者の運命を如何にと云ふに新法若しも發布とならば彼等は全
く廢業して他に方向を轉せざる可らざるの不幸に會するは必然の數なり抑も此新聞賣捌取
次人なる一種族は近來新に起りたる營業者なりと雖も其營業は既に一個專門の商賣にして
其人も亦純然たる獨立の商人なること一般他の商業社會に殊ならず而して全國に散布する
其數は未だ精細なる統計を得ざれども府縣廳所在の地なれば多きは數十少きも五六を下ら
ず其他地方の一小都會を爲す者は言ふに及ばず或は山村水落に至るまでも交通の便開けて
加ふるに其地に新聞紙購讀者あるに於ては新聞紙賣捌なる一種の營業も亦必ず之に伴ふて
繁昌するの趣は全國各地概ね皆然らざるなし且つ此賣捌人なる一種族は地方に在りては書
籍商の之を兼ぬる塲合もあれども今日の處にては新聞紙取次賣捌を以て本業と爲す者甚だ
多く先づ此一業を根本として之に依て衣食し傍ら兼て地方人に書籍雜誌供給の便路をも與
へ知識播布、人智開發の爲めに平生奏する所の其功尋常ならざるは世人の詳にする所なり
去る明治十八年中の官府の調査に據るに全國新聞雜誌の賣揚げ屆け金高九十九萬餘圓即ち
大數一百萬圓の商賣なるは當時に在りて既に小額と云ふ可らず然るに今日に至りては人事
の進歩三四年以前に較べて一層著しければ隨て新聞雜誌の發賣數増加したるは言ふに及ば
ず其他地方交通の便開けて配達に費用を減じたる事、各社賣別の方法大に整頓して購讀者
の便を促したる事、明治十九年來各社互に定價を引下げ新聞紙販賣の路廣まりたる事以上
此等の諸因併せ動て其働きを爲したるの功莫大なるが故に三四年の今と昔とにては發賣紙
數に幾倍を増し其代價は下落しながらも全國平均の總額に於ては十八年來少くも五割の増
加を來し現時全國新聞誌雜の賣揚げ高年に一百五十萬圓を下らざるや明かなり而して此中
新聞紙賣捌人なる營業者の手に係る者と各社直接配達に係る者との比例を擧ぐれば或は八
と二或は九と一との關係を爲すもあれども内端に積り尚ほ十中の七は賣捌人の手を經由し
殘る其三を各社直接配達の分として計算するに一箇年間少くも一百萬圓の商賣は新聞紙賣
捌人の手に於て運轉しつゝある者なるに今日俄に法を改めて前條風説の如き次第にも立至
らば現在一百萬圓の商賣に依頼して生活を維持する營業者は一時に悉く其業を失して衣食
に迷はざる可らず一小事たるに似たれども官府、營業者の爲めに其安全を計るの務めとし
て豫め其邊に熟虜あらんこと我輩の希望に堪へず