「何を以て獨逸を學ぶや」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「何を以て獨逸を學ぶや」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

何を以て獨逸を學ぶや

目下元老院に於て審議中なりと云ふ改正郵便條例の草案は遞信事務の改良を主眼としたる

者の由にて小包郵便の新法を設け書籍遞送の費用を引下げ或は郵便物に保險を附する等之

を現行條例に較ぶるに出色の箇條少からずと云ふ素より道路の風説に傳へ又傳へて漸く我

輩の耳にしたる所なれば事の眞僞を知るには法令發布の後を待つの外なけれども其大體、

改正の精神は遞信事務を擴張して便利を増さんとするの一意なること當局者に於て異同あ

る可らず故に此點に於ては我輩も今回の擧を賛成する者なりと雖も彼の新聞紙取締の手段

として發行地三里以外に私社の配達を禁止し斷然之を官府の手に収むるの可否論に至りて

は前日來の紙上にも述べたる如く聊か鄙見なきに非ず抑も發行地三里以外云々の制限は獨

逸の法なりと申す事なれども總じて官府が新に經營を興し之に由て同種の民業を禁ずるの

塲合には從來其民業に伴ひ來れる便利實益を害することなくして官府より故の如く之を世

人に與ふるは當然の義務なる可し例へば官府に於て民間私設の鐵道營業を禁して悉皆之を

買上げ官の手に其經營を司るの塲合あらんには政府が俄に其專權を占めたるの故を以て運

賃を引上げ或は特殊制限の法を設けて從來民間に行はれたる運輸交通法に不便を與ふるな

どは官府の義務に於て相濟まざることなり固より鐵道の如きは之を民間の經營に任ずると

きは競爭の範圍至て狹隘なるが故に動もすれば專有壟斷の弊に陥り易く社會少數の利害の

爲めに多數人民の不幸を齎らすも嘉す可き事柄ならざれば寧ろ政府に於て之を買上げ一切

これを民間の手に許さざるを良策と爲すなど近來は政治學者に斯る議論なきにも非ざれば

我輩も一歩を讓り官府が鐵道事業を專有するを不利ならずと看做して更に尚ほ鄙見を陳ぜ

んに從來民間に於て營み來りたる交通事業を一朝官府の手に収むるの曉に一般、社會の人

の便宜利益を奪ふが如き事情もあらば我輩は尚ほ斷じて鐵道買上げの説を非なりとす可し

何となれば斯る事の次第にては官府が鐵道專有權を有する一方の利益は之が爲めに社會の

人の蒙むる可き他の一方の不利不便を償ふに足らざればなり

右は鐵道に就て我輩が假りに一塲の想像を描きたるものなれども今回道路に噂ある郵便條

例改正の項目中各新聞紙の私社配達を禁ずるの一事は多少なれど趣を同うすることなきや

否や我輩に於て苦慮する所のものなり抑も新聞紙の配達法は英米佛諸國の如く私社の自由

に放任すると將た又獨逸の如く官府の手にして私社に其權を許さざると孰れか正孰れか非

なるやは恰も彼の鐵道論の如く之を官に專にすると民業に歸すると其得失に就き暫らく裁

斷を下す能はざるの疑問なりとするにもせよ官府が人民の手より斯る營業の權を収め自ら

其事に當らんとするに於ては從來民間私しの業に伴ふて社會一般に其利澤を受け來りたる

組織をば今後も其まゝに繼續せしめ假令へ其業が官府の手に歸したりとて之が爲めに人民

をして俄に不便不利を感ぜしむることある可らず盖し官府たるものゝ義務なればなり此點

よりして竊に今回の郵便條例改正の結果如何んを相像するときは我國の新聞紙配達に獨逸

の檢(手偏)法を模写し來りて其まゝに實行するは差支なしとするも扨その獨逸國の郵便

局が國内の各新聞社と將た一般の讀者とに對し現在與へつゝある所の便利實益を日本の郵

便局に遷して吾々人民に其利澤を蒙むらしむること實際に行はる可きや否や我輩の容易に

保證すること能はざる所のものなり之を聞く獨逸の各郵便局は一切諸新聞紙の配達を司る

と與に新聞紙の注文廢止或は代金の仕拂戻等を處理する其趣は恰も日本今日の新聞紙賣捌

人なる營業に等しきのみならず利便は却て遙に之に優るほどの次第にして各新聞社は言ふ

に及ばず社會一般、新聞紙の購讀者に於て毫も不便利なしとのことなれば官府の檢(手偏)

束も人民の爲めに却て一種の便法なれども運輸交通の便未だ全からずして普通の遞信事業

さへ尚ほ隔靴の嘆を免かれざる今の日本國に突然獨逸の法を寫し來りて新聞紙の注文廢止、

代金の受取催促、差引勘定の帳合、紙面の記事體裁に就ての忠告、賣捌の路を弘むるの計

畫、購讀の客を失はざるの方便等專ら本社の爲めに盡す所の無形の注意有形の雜務を官府

の手に引受け從來全國の各地に設けある賣捌取次所にも讓らざる便利實益を一般の看官に

與へて新聞紙本社の記者會計に滿足を得せしむ可きや如何ん我輩の信ぜざる所なり要する

に獨逸國新聞紙配達の便利實益は此の如き者ならんなれども之を日本に行ふには東西事情

の相違しあれば漫然學んで其目的を達す可らざるは論を竢たず此邊の事情は獨り新聞紙配

達の事のみならず西洋法を學ばんとして往々其目的齟齬したるの事例あるにあらずや經世

家の爲めに特に注意を促す所のものなり或は今回改正の精神は單に新聞紙檢(手偏)束の

一偏に在りと云ふか然らば即ち其取締の方法手段は何樣にもある可きに事ここに出でずし

て唯獨逸法に從はんとす其趣旨の在る所知る可らざるなり或は政府は事の便不便を問はず

唯獨逸の檢(手偏)束法のみを採て斷然これを實行せんとの决意なれば早や夫れまでの事

なれども若しも幸に然らずして獨逸法を寫すと同時に同國の郵便局が各新聞社に與へつゝ

ある便利實益をも日本郵便局の手に於て劣りなく施行し以て國民に滿足を得せしむ可しと

の優しき考案より出でし次第もあらば我輩は其考案の果して能く日本の實際に當嵌まる可

きや否やを再應熟慮して重ねて審議あらんことを當路の人に勸誘する者なり