「日本人民の政治思想」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本人民の政治思想」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本人民の政治思想

人民の政治思想養成せざる可らずとは世の政論家の常に談ずる所なり今や明治廿三年も既

に二年の後に近きたれば其曉には兎に角國會の開説を見るに至ることならん且つ市制町村

制も既に發布となり愈々明年より實行することゝなりたるに就ては人民に政治思想を養ふ

ことは最も今日の緊要にして我輩に於て異議なしと雖も其如何なる政治思想を養成すると

云ふに至ては聊か世の政論家と其説を異にせざるを得ざるなり回顧すれば六七年前我國に

て一時政論の盛んに流行したることあり其主意を聞くに國會憲法云々とて只管人民参政の

權利を主張し堂々たる正論毫も間然すべからざるが如しと雖も窃かに其心底を叩けば所謂

政論家なる者の多くは舊藩士族の末流にして國會開設云々と云ふ其議論の深意は己れ先づ

政壇に上り宿昔青雲の志を達して以て其功名心を滿足せんとの願念に外ならざりしが如し

即ち其政論の依て出づる所の源は祖先傳來の功名心にして其根據既に堅固ならざるが故に

世の嗜好の移ると共にその熱自ら冷却し昨日までは肩臂張りたる政論家も忽ちに屈して今

日の官權家となり自ら其所論の脆弱なるを證するが如きも畢竟は其罪、人にあらずして其

議論の由て出づる所の根據固からざるが爲めのみ然らば則ち何をか參政論の本なりやとい

ふに私權保護の要義即ち是れなりと答へざるを得ず盖し一國の政權を少數人の手に任せて

之を牽掣するものなきときは其流弊終に腐敗に陥り動もすれば人民の權利を害するの極に

至らざるを保し難し是に於て乎初めて人民に參政の權を有して私權を保護するの必要を見

るべし即ち國會開設人民參政の説は私權保護の要義に出づる消極策にして之を外にしては

當分國會の必要なしと云ふも可なる程の次第なり左れば國會參政の説は私權保護の要義に

ありとして扨て人民の私權は生命、財産名譽と云ふ中にも全國の人民が政治の如何に依り

て鋭敏に利害痛痒を感ずるものは第一財産にあるが故に人民參政の要義は財産保護の一點

に在りと云ふも亦當る可し然らば人民參政論の本は財産保護の一義にありとして之を今日

に實行せんとするには先づ日本國中に於て財産家なるものは如何なる種族にありやと問は

ざるべからず例へば英國は世界の製造國にして國民の最も利害を感ずる所は製造の業に在

り即ち英國の財産は製造に在りと云ふも可なり故に英國の國會に於て製造家の勢力最も盛

んなるを見るは他なし其人民が第一の財産たる製造保護の要義に鋭敏なるが爲めのみ今我

國に於て國民の最も利害を感ずるものは何物なりやと云ふに國中商賣製造の業なきにあら

ずと雖も其最も盛大にして國民全體の利害に關するものは農産物なりと云はざるを得ず我

國にて米の収穫は歳の豐歉に由りて年々同しからずと雖も近年の報告を見れば一年四千萬

石に下らず之に加ふるに大小麥大小豆を以てす盛んなりと云ふ可し米の一品にても一石四

圓の價とすれば一億六千萬圓の巨額なり而して此巨額の米穀は何れの處に生ずるやと云ふ

に問はずして日本國土の産物たるを知るべし其他我國の産物中にて主要の地を占め外國貿

易の權衡を維持するものは生絲製茶の二品にして是れ亦農産物として視る可きものなり右

の如く一國の經濟社會を支配する所の米穀と海外貿易の權衡を維持する所に絲茶ともに土

地より産出するものなれば我國民の財産は單に土地にありと云はざるを得ず扨て國會參政

の要義は財産保護の一點に在るものとすれば他日の國會に議員となりて國政に參するもの

は日本の財産家即ち土地所有者の中より出ること當然の理にして即ち議員は全國の土地を

代表し所謂地主總代の心得にて國會に出席し終始土地保護の精神を以て國政に參せんこと

我輩の希望する所なり(未完)