「教科書の檢定」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「教科書の檢定」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

教科書の檢定

小學校用の教科書は文部省の檢(手偏・以下同じ)を經て始めて學校に用ひらるゝを得る

こととなりてより坊間書肆の間に競爭を起し甲榮え乙衰ふる其中には種々樣々の計略を運

らして種々樣々の弊害を生じ聞くに忍びざるの醜聞さへありて頻りに動搖の趣なるが本來

政府は學校の爲めに民間の出版書籍を檢定するの權利あるやなしやと尋れば我輩は容易に

其有無を斷言せざるものなり盖し書籍は智徳を養ふの原料にして既に之を養ふとすれば喩

へば肉體を養ふの食物に同じきこと何人も敢て疑を容れざる所ならん然り而して肉體を養

ふの食物には鳥獸魚菜その種一ならず人によりて好む所を異にすることなれば或は肉食を

欲する者もあらん野菜を好む者もあらん又これを食するの法も種々にして燒〓(こう)す

るものあり生食するものありと雖も歸する所は身體を養ふの一儀に外ならざるが故に其最

も可とする所に從へば能く榮養に適して健康を保つに足るものなり左れば食物は肉類にて

も野菜にても人の取る所、隨意勝手にして唯その勝手に一任してこそ始めて各人各自の宜

しきを得るものなれば政府と雖も人の嗜慾に干渉して一々其食物を指圖するの權利ある可

らざるや明白なるべし書籍も亦斯くの如し書中記する所、悉く相同じからざれば讀む者は

其撰む所を異にすると共に之を讀むの心事も亦一樣ならずして此學校に最良なるもの必ず

しも他の學校に最良ならず何れか得、何れか失、殆んど一律を以て規定すること能はざる

が故に唯その適する所を以てすれば能く智徳を發達するの効を奏すべきのみ然るを政府は

或る一種の標準に基づき天下無數の古書新著譯書を集めて逐一その良否用不用を檢定許否

するが如きは恰も食物を指圖するの類にして其多事煩雜なること際限ある可らず果して事

の實際に行はる可きや否や少しく疑なきを得ず或は文部省の檢定は著譯者が之を出願する

ものゝみに就て可否を斷ずることなれば必ずしも煩はしきにあらずと云ふ者もあらんなれ

ども日本國は甚だ廣くして著譯家も亦甚だ多し其著譯家にして檢定を出願せざる者あるを

如何せん况んや古書の中にも今日の教科書に用ふ可きもの少なからざるに於てをや此類の

書は文部檢定の眼を遁れて不用の部に屬すると云はざるを得ず、盡く天下の書を檢定せん

とすれば其煩に堪へず、出〓を〓て檢定せんとすれば良書にして世に現はれざるもの多し

誠に困却の次第なりと云ふ可し

左れば政府は一切教科書の檢定を廢して然る可きやと云ふに鄙見又これに同意するを得ず

例へば肉體の飲食品の中にて河豚の如き惡水の如きは有毒有害ながら人の徃々知らずして

飲食する所のものなれば河豚は食ふ可らず此水は飲む可らずと一々之を禁制して其罹害を

豫防するは政府が愚民社會を保護するの一法にして尋常一樣の食物に向ては其種類の何た

るに論なく人民の勝手に任して决して指圖すべき限りに非ず又實際に於て指圖の叶ふ可き

事柄に非ずと雖も特に異樣有毒の者に至ては臨時の禁制も亦要用なりと云はざる可らず左

れば政府が飲食物に干渉するの標準は專ら害毒の點にあるべきこと明白なりとして扨前に

も陳べたる如く書籍は智徳の食物なれば其人心の發達に無害なる限りは讀者各自の勝手に

任して細に之に干渉することなく唯その有害なること河豚悪水の如き塲合に至て臨時に禁

制す可きのみ之を要するに從前に慣行に從へば政府は教育に有益なるものを檢定して之を

取らんとするの精神なりしかども迚も實際に行はれ難く人力の及ぶ可き所にあらずして經

濟上にも甚だ不利なるが故に今度は之を逆にして有害の方に眼を轉じいよいよ此書は學校

に用ひて害あらんと認るものゝみを檢定して之を除かんこと我輩の冀望する所なり斯の如

くしたらば日本學校の教科書は毎縣に異なるのみならず毎郡に異なり毎校に異なることも

あらん毫も怪しむ可き事相にあらず唯彼の教育に熱心して天下の學問を同一色ならしめん

など工風する輩は之を恐れ如何なる異樣の學風を生ずることもあらんかと心配なる可しと

雖も我日本國は既に文明の風に吹かれて其大勢は動搖す可きに非ず文明外に異樣の學風を

起さんとするも人力の能はざる所なれば學校教科書の異同の如き何等の利害ある可きや我

輩は偏に教育家の安心を祈る者なり