「日本國民は土地保護の大義を忘るべからず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本國民は土地保護の大義を忘るべからず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本國民は土地保護の大義を忘るべからず

日本は農國なり其國民の利害損失一として土地に關係せざるはなく土地即ち國財にして一

國の經濟は土地に依て以て立つものと云ふべし西洋諸國の如きは或は工業製造を以てし或

は商賣貿易を以てし以て其國を立つるもの多けれども日本の國情は全く之に異なり或は近

年來商賣工業云々の沙汰なきにあらずと雖も實際の成迹に至ては見るに足るもの少なくし

て全國の經濟を支配する根本は唯米穀に在るのみ故に年豐にして米の収穫多く農家の懷、

温にして購賣力盛んなるときは全國一般の景氣これが爲めに引立ち之に反するときは其不

幸獨り農民自身に止まらずして國中到る處商となく工となく何れも影響を感ぜざるものな

し又米穀の外に我外國輸出の大部分を占むる生絲製茶の二品も等しく農産物にして共に土

地より生ずるものなれば日本の農國たるは爭ふ可らざるの事實なりと知るべし扨て我國に

於て近々國會の開設あるべしと云ふ其仕組趣向の如何は未だ相分らざれども代議士を國會

に出して事を議するものゝ方より云へば人民の私權即ち生命財産名譽を保護して他の干渉

蠶食を防ぐの要は勿論の事なれども就中常に利害を感ずるの大なるものは財産にして而し

て我國に於ては其財産なる者は即ち土地にありと云へば日本の國會議員たる者は宜しく土

地保護を以て其精神と爲すこそ肝要なる可し是等の論旨は既に過日の時事新報に概略を陳

べて大方の教を乞ひし所なれども世に反對の議論あるを免かれずして其論者中には國會の

議員とし云へば智識經驗兼ね備り議塲に出席しては正々堂々立派なる政談にても談じ得べ

き一箇の政治家たる資格を以て之に望むものなきにあらずと雖も斯の如きは國會を以て政

治の討論塲と心得深く實際の利害を考へざるものにして甚だ頼母しからぬ次第なりと云ふ

べし盖し世の實際に於て隨分知識經驗に富める人々にても其身に直接の關係なきものに至

れば却て事の利害を等閑に付し去るの例少しとせず例へば東京府下にて昨年來警察の筋よ

り屎尿の運搬を夜間の外、許さぬ事となりたり是れは市民の衛生都府の體面云々の點より

斯くは定めたるものならんなれども此事たるや農家に取ては實に容易ならざる一大事なり

と云はざるを得ず成程西洋諸國の都府などにては是等の汚穢物は成る丈け人目に懸らぬ樣

始末するの設け肝要なることならんなれども日本の事情は則ち然るを得ず屎尿は農家肥料

の重なるものにして之を運搬する時間の如き决して輕視すべき事柄にあらずと云ふ其次第

は農家耕作の勞働は天氣晴雨の操合最も大切にして肥料運搬の如きはその大切なる晴雨の

操合ひを利用し以て之に從事することなり天偶ま偶ま陰雨して野外の耕作に適せざる折な

どは肥料の運搬に最も都合よき時なれども夜間云々の規則は此好機會を利用することを許

さず終日田畝に勞作して暑寒の身を犯すを厭はず氣倦み力疲れて日夕家に歸來す、南軒の

下に足打伸し三盃の濁酒、今日の勞を忘れて明日の力を養ふは正に此の瞬間に在ることな

るに更に倦脚を勵まして都門に徃來し肥料運搬の勞に農家一刻千金の休息時間を消費せざ

るを得ずとは其不便不幸想ふ可きなり今の東京府會は府民を代表して智識乏しからず然か

も政治經濟等の議論には隨分巧なる人物なれば府民の不便不幸と心付きたらば府廳又は警

察署の注意を促して肥料運搬の時間に關し何か論することもある可き筈なりと思へども曾

て其議論あるを聞かざるは何ぞや府會の議員不智不深切なるに非ず唯農作上の便不便は議

員の身に直接の利害なきを以て自然に之を忘るゝが故のみ右は一府下一時の事にして左ま

で大切なる問題にもあらず唯例證の爲めに示したるまでのことなれども他日若しも國會に

於て土地に關する議題の現はれたる其時に當りて席に列する議員中に土地の利害に痛痒な

き人々の多からんには或は其注意至らずして意外の結果なしとも言ひ難し我輩の最も恐

るゝ所なり故に我輩が今後我國創造の國會に於ては何は兎もあれ土地の所有者より議員を

出し地主總代の心得を以て國事に參與し片時も土地保護の大義を忘るべからざることを希

望するものなり