「土地の説(昨日の續き)」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「土地の説(昨日の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

ドクトル、セメンズ原文反譯

世の政治經濟を論ずるものは必ずや徳川の政を非とし此の如き法度は今世の文明と進化との精神に背くものなりと公言するや疑なし如何にも其説の通りにして間違はなけれども純然農を以て國を建つるの邦國に向ては土地を有するものと土地を耕へすものとの區別あるは甚だ忌む所にして地持ち小百姓の制は今日世論の普く許して農國には最も大切とする所なり

佛國は歐洲の中に在りて耕作最も進み産出最も豊かなる部分なり其故は殆んど農民一體に土地を持ち耕作するの地は概ね其有たるに由るなり日本にては余輩の知る如く小地主多くして其土地の細に分割せること世界中に比類を見ず日本を以て他の國々と比ぶるに甚だ貧き者もなく甚だ富める者もなく貧富平均の度を得たるは即ち此故にして政治經濟を論ずる人士は常に此有樣を稱して何れの國の爲めにも最善良最幸福と認る所のものなり本來この世界は多數の人の爲めに作られたるものにして少數の人の爲めに作られたるものに非ざれば若しも一時去り難き事情に迫りたる小農夫が餘儀なく其土地を賣て冨豪冐險家の手に渡すべきことならんには是れぞ日本人民の一大不幸にして農夫なるものは田を耕へし畑を作るの外に一技一能の覺えある可きに非ざれば以前は私有地を耕したる者が今は小作人と爲りて其地を耕すの外に手段もなく彼の嚴酷なる地主の手に掛りて早晩奴隷同樣の境界に陥る可きのみ

明治の前にも小作人は隨分多くして假令へ一時に地面賣渡は叶はざるも毎度之を質入するの風儀は余が知る所なれども其頃に行はれたる社會の仕組にて右の半賣却即ち質入地より生じたる惡結果とては絶て見ざりしことなり然るに汽船汽車其他西洋文明の利器を輸入してより時勢を一變し在昔なれば貧にして不仕合なる者も常に富人長者の注意助言を得て安く生を營みし其仕組は忽ち打破られて家もなく土地もなき農民の大困難に陥るも亦是非なき次第なり左ればとて今貧しき農民にして其收穫を賣盡し猶ほ租税を拂ふに足らざるものは果して如何にすべきや自から好むには非ざれども此上は土地を賣る外に由るべき詮術なしと云は〓〓〓して何と〓へんやうもなし甚だ〓〓なりと云ふ可きのみ

〓〓〓〓の原因は頗る錯綜せるものにして〓茲に論ずることは能はれども所在に破産するもの續々跡を絶たずとの風説は眞相に非ずして夸張の言たらんことこそ望ましけれ其眞なると否とは何れにしても多少の農民が租税を拂ふ能はざるよりして餘儀なく祖先傳來の我土地を賣り獨立屈するなきの良民は變じて無力無家、他に依賴するの一族となるの事實は國家繁昌の瑞兆とは云ふ可からず日本にては小農夫の格外に數多きを以て國民全體の家屋に礎となるものなれば若しも是等の小民にして零落に陥ることもあらば其禍は恰も家屋の土臺に蠹の入りたるに異ならず土臺既に蠹害に遭ふ、家の主人は假令へ美麗なる家具器物を以て内を装飾するも肥馬輕車に乗て外に奔走するも土臺より來らんとする破壊顛倒の禍機に注意するに非ざれば全家擧げて家人の頭上に落ちんのみ徳川政府の失政少なかりしには非ざれども小農民を保護して祖先傳來の家と土地とを保存せしむるの甚だ大切なる一事に至ては決して等閑に附したることあるを聞かず此一事こそ何れの國に於ても前途の望少なからざる幸福の基礎にして東洋諸國は大概皆滅亡し西洋に於ても既に亡國に屬したるものある其中に獨り日本のみは常に進歩改良したる由縁なりと返す返すも余は茲に斷言するものなり今日の日本國は西洋の文明流に從て進歩止むことなきが如くなるも實は唯是れ流行の變化たるに過ぎず其成跡は新奇意外の事情に逢ふこと多くして政府の姿勢を困難ならしむるに足る可きのみ是亦豫め注意す可き所のものなり竊に案ずるに凡そ此種の變化より生ず可き困厄不幸は必ず一時當分のことにして止む可きを要す其國をして新事態に適するの力を得せしむるまでには官民共に理財の紊亂を防ぎ節儉を守るの一法あるのみ農民の中には其身自身の奢侈に由て産を破るに至るものあるは余の決して疑を容れざる所なれども若し國の歳用を養ふ所の富を作る農民にして既に儉約すれば其國庫の支出を仰ぐ官員は尚ほ一層の儉約を行ひ生活交際の方法のみならず總て事業の公共に係り國民の負擔たる可きものに向ては冗費を省くの心得専一なる可し余は當國農民の餘儀なく其土地を賣るの事實あるを傳聞して其國の爲めに恐るべき危險なるを悟り此弊を防ぐが爲めには力を盡して一日も猶豫なからんことを政府〓に人民に向て警戒注意せんと欲するものなり(終)