「日本鉄道論」
このページについて
時事新報に掲載された「日本鉄道論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本鉄道論
日本鐡道論は社友某君の起稿にして特に本社に寄せられたる者なり其英米兩國間鐡道の優劣を比較するの段に於て偶然之を視れば米國の鐡道を過賞したるが如きの處なきに非ずと雖も翻て起稿者の眞意を尋ぬるに立論の大旨只管公平不偏を旨としたるの證據は務て議論事例を米人の手に取るを避け却て反對なる英人の材料に就き彼此考證して本論を編みたるに照しても明白なる可し特に日本は西洋に較べて貧國なるが故に鐡道の工事にも質素實用を第一とし成る可く少しの資本を以て成る可く多くの効用を買はざる可らずとの論意は日本の國状に一段適切なりと思はれたれば我輩之に贊成せざるを得ず唯其細目、一長一短の爭ひに至りては我輩實に不案内なる所なれども夫れも鐡道工事には世人の最も注目するの今日なれば此期に及んで之を世に公けにするは無益の業ならざる可しと信じ仍て掲げて連日の社説に充つと云ふ 時事新報記者
日本鐡道論
今の日本は鐡道の敷設に忙はしき時節にして官線には東海道中山道の工事あり私線には日本鐡道會社の仙臺以北青森間の工事あり又關西には山陽道鐡道會社既に土工に着手し此他九州鐡道關西鐡道大坂鐡道等孰れも起工の準備整はざるなく而して東國地方に至りては兩毛鐡道は既に開業し水戸鐡道も遠からず落成を告ぐるの運びとなり其他甲武甲信山形の諸鐡道は株金を募集したるもあり測量を了りたるもあり或は又北越鐡道加州鐡道を始めとし其他全國各所に於て昨今敷設の計畫ある者殆んど枚擧に遑なければ今後の氣運隨て如何なるべきや掛念に堪へざる次第なり是に於てか世人或は將來に注意し斯の如く鐡道事業の一時に起らば流通資本は概ね變じて固着資本と爲り且つは外國より軌條、機關車等の買入れあるが爲め莫大の資金を浚はるゝと共與に忽ち内國の恐慌を起し經濟上に大變動なかる可きやと憂ふる者なきに非ず抑も鐡道事業の盛なるより時に或は恐慌なきを期す可からざるは例へば英國にても千八百二十七年リバプール、マンチェスタル間の鐡道落成したるに依り英人は俄に鐡道の利益を知る折から〓しき投機商人の其間に出沒奔走して僅か數ケ月間に一百三十餘の新會社を出現し數年を出でざるに英國の重なる鐡道は都て竣功を告げたれども是と同時に流通資本は引去られて固着資本に變したる爲め前古に稀れなる恐慌を起したるは現に世人の知る所なり左れば日本に於ても各線路略ぼ成るの頃はひには或は一大恐慌の起ることなかる可きや否やは最も注意す可き問題にして我輩は是に關し聊か説なきに非ずと雖も左りとて恐慌萬一の異變を怖れて今日に急務の鐡道敷設を延ばす可きは尚ほ尚ほ策の得たる者ならず故に恐慌の變に處するの方法は別に是ある者として爰には一日も早く其工事を急ぎ全國の運輸交通を利便ならしむること我輩の夙願此上もなければ更に一歩を進めて日本の鐡道は西洋諸國中何れの工事に傚ふこと得策なる可きやを研究するは盖し不用の問題に非ざる可し
鐡道は西洋文明の利器なれども國に依りて自ら之に適當したる鐡道なきを得ず即ち英國の鐡道は自ら英國に適して佛蘭西の鐡道は又自ら佛蘭西に適する者なる可し其他米國なり獨逸なり將た白耳義なり鐡道の全體に於ては一以て運輸交通を助くるの事業たるに相違なけれども其局部に亘りては多少の相違優劣なきこと能はず左れば爰に日本の鐡道は其模形を何れに取る可きやと云ふに當りては先づ第一に日本の貧富如何を考へ次に建築工事の最も容易なる可き者を撰み以て今の急務に應ぜざる可からず然り而して西洋諸國の鐡道中日本に移して利益ある可きは英米兩國の鐡道ならんなれども偖進んで何れが能く我國に適當するやを論定し其一方果して日本の利益ある者ならば鋭意して之を採用するは國の爲めに大切なること論を要せず則ち今日は最早鐡道敷設の必要を人に勸む可きの際には非ずして單に如何なる方法に由り又如何なる模形を取りて日本の鐡道を全成せしむ可きやを研究するの時限なれば我輩は更に進んで言ふ所なきを得ざるなり
英米兩國の鐡道を比較して一概に其優劣を斷定するは至難なれども左れども米國鐡道の英國鐡道に較べて一種出色なりと云ふ所以は外ならず英國に於て始めて軌條を敷き之に列車を運轉せしめたるはスチーヴンソン氏の功なりと雖ども當時の意匠考案は今日の如く完成したるに非ざるは辨を俟たず彼のマンチェスタル、リバプール間の工事は實に近代の鐡道の起源にして以來數十年の間非常の進歩改良を經て以て今日に至りし次第なれば今と昔とを比較して大差あるは固より怪しむに足らず元來事物進化の際に當りて百事舊慣に束縛せらるゝは勢の免かる可らざる所にして偖又舊慣に拘泥すれば從て新機軸を出だし新思想を擢んずる能はざるも亦自然の道理にして凡百の事業皆然る中に鐡道も其例に漏れざる證據を擧れば彼のスチーヴンソン氏が始めて之を敷設したる其際には當時の世に行はれ居たる乗合馬車の形を模して乗客の車を作り又其頃の炭山に使用したる石炭車を軌條に當嵌めて貨物を運轉したることにして即ち今日の鐡道に見る客車貨車の權輿雛形なれば爾來これに幾多の改良を加へたりと云ふと雖も其大体に於て既に乗合馬車石炭車の原形に束縛せられて舊慣を脱すること易からず假令へ他に奇想新工風あるも之に從て至便の車輛を作るの塲合に至らざりしは實際に疑ふ可らず、加ふるに英人の氣質として着實保守の念固くして頴敏變通の機に乏しく一度び其守る所を定れば容易に舊を棄てゝ新を取るを好まざるより英國鐡道の進歩改良は案外に捗取らざりし者の如し
然るに之に反して合衆國は新規開拓の地なれば舊慣古例の束縛なく人智亦至て輕快にして變化に逆らはず乃ち鐡道の事業も模形を英國に仰ぎたるは勿論なれども新規の機軸を出し又新規の便利を計るに於ては本國なる英國は是に數歩を譲らざるを得ざるのみならず米人は英人に特有なる保守の氣質を〓脱して傍ら他の各國の人情風俗交々之に混同し百事事物の變遷を促すに至便なるより鐡道の事業に至りても爰に新規の工風を出せば其工案は即日に行はれて舊日の式樣も一朝にして廢絶し進歩開發の速なる實に驚くべきの次第なれば米國の鐡道は自然に新工風に富む尚ほ其上に最初軌道を敷設するの時にありても未開拓の土地として其道路は英國の如く坦々たる者にあらざるが故に列車機關車の作りにも充分の工風を凝らし成る丈け激動を尠なうするを務めざる可らず要するに英國の鐡道は舊習に束縛せられ易く米國の鐡道は新機軸を現はすに至便なるの趣恰も反對に出づるは分明なりと云ふべし（未完）