「結局を如何す可きや」
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時事新報に掲載された「結局を如何す可きや」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
結局を如何す可きや
身を近事の局外に置き其事の前途を想像せんとして及ばざる者は二三にして足らざれども就中最も解す可らざるは歐洲和戰の問題是れなり列國交々兵を張るに熱心して其費用を惜まざる實に驚くの外なき有樣なれば其外形を見ても戰爭の破裂は早晩避く可らざるのみならず国際交互の内情も日に月に危急に迫り歐洲の大勢は旦に夕を保たざる者の如し露西亞と墺地利と相疾み佛蘭西と伊太利と相敵して其敵情疾念は彌々深く千八百七十年の普佛交戰以來今日まで十八九年の其間辛らくも表面の平和は繋ぎ得たりと云ふと雖も裏面の潮流は唯次第に激するの一方なれば其發するときの勢は必ず猛烈ならざる可らずバルガリヤの事件の如き將さに破裂に至らんとして又暫く沈靜の姿を裝ひ一靜一動、尚ほ今日に至るも歐洲の全面には戰雲靉靆何れの日に碧空を仰ぎ得可きや殆んど其望なしと云ふも可なり露國は獨り北方に國して其位地嵎を負ふの虎に殊ならざれば少しも後顧の患を視ずして鋭意南侵の用意最中、墺國は衝に當りて其危險亦最も大なるが故に露國の一擧一動に對しては或は畏れ或は怒り人心の激する所、殆んど制し難しと云へり將た佛伊兩國の關係に至りても近くは通商條約の談判さへ破れて其間互に折れ合はざるのみならず元來伊の建國は佛の内訌を利して成りたる次第もあらば二國の民心常に仇讐の思ひを爲すは世人の熟知する所なり、四方の事情斯の如くなれば些少の爭に口を藉て干戈を動すの機は露なり佛なり極めて容易なる地位に居るものなれども左れば迚今日まで幸に戰亂の發せざりしは何故なりや盖し我輩の見る所を以てするに他に一二の事情もあるかならんなれども実は日耳曼の一國柱石の重きに處して歐洲の平和を保つに盡力する者與りて大に力ある可しと信ずるなり
今の日耳曼の政略は主戰主義に非ざること事實に於て蔽ふ可らず其佛國に備ふるはアルサス、ルーレヌを守るが爲めの計畫に過ぎずsちえ再び巴里を蹂躙せんとするに意なきは勿論、一方のバルガリヤに對しては之を露國の〓に歸せしむるも異議なき所なれども隣邦墺地利が其〓塀を奪はれて隨て日耳曼にまで危急を〓ずるは己れの爲に不利なりと信じ〓て又一方に墺を友として露を疎んずるの迹を示すに外ならざる可し其事情甚だ錯雑なりと雖も日耳曼の本色は唯今の帝國の版圍を維持し其分離を防ぐの用意に汲々たるのみにして外に向ひ我より進んで露佛を敵にするの餘力なきのみならず寧ろ列國に交親して無事平和を求むるの念に説なるはビスマークの政略なれども偖如何にして其平和を繋ぎ得可きやと云ふに兵力の外依頼す可きものなし是に於てか頻に軍備を擴張し百萬の強兵を擁して屹然動かず列國も之を憚りて敢て干戈を交へずして今日までの平和を保ち得たることなれども露墺佛伊の諸國獨り日耳曼に憚る所あるの故を以て互に仇讐の念を撤し和親の交を結ばんとする間柄にも非ざれば各々競ふて兵を增し力を養ひ相格闘せんとするに際し平和の仲裁者即ち壓制者たる日耳曼も當局の格闘者より弱くしては固より其間に立つ能はざるが故に吾も亦強兵の手段を怠る可らずとし、彼れ五萬の兵を增せば我れは新に十萬の兵を聚め彼れ百萬の軍費を殖せば我れは二百萬の公債を募り多々倍々相加へて際限なきは即ち今の日耳曼の状態にしてビスマークが内に日耳曼帝國の分離を防ぐ為めに外に歐洲の平和を圖る政略は正しく豫期の目的を達したる者なりと雖も同時に國民の負擔を慮り兼て事の結局を如何にと考ふるに平和の元入に費したる其費用と將た歐洲の戰爭を自然に任せて破裂せしめたるの損害とは詰まり差引計算して孰れが國家永遠の利なる可きや我輩と雖も其判斷に苦まざるを得ず盖し日耳曼が今の如くに兵備擴張の規模を建てたるは千八百七十一年以來の事なりしも當時には佛國より償金として受取りたる五十億マルク(一マルクは金貨二十五錢)の大金ありて之を年々經費に充たしたれば千八百七十六年までは別に臨時費用の需なかりしに同年に至り其大金も全く使い拂ふて翌七十七年始めて兵備公債を起し六百四十二萬マルクを募りてより爾來今日に至るまで凡そ一年として兵備公債を起さざるの年度なし今之を表に示すに
陸軍公債 海軍公債
一八七五年 ― 一三、一八〇、〇〇〇マルク
一八七七 六、四二〇、〇〇〇 二五、五七〇、〇〇〇
一八七八第一 五、七六〇、〇〇〇 三二、五八〇、〇〇〇
同上第二 八、七二〇、〇〇〇 ―
一八七九 一〇、八八〇、〇〇〇 一九、五九〇、〇〇〇
一八八〇 一五、〇一一、〇〇〇 一一、六六〇、〇〇〇
一八八一 三六、四三〇、〇〇〇 九、三七〇、〇〇〇
一八八二 一九、八〇〇、〇〇〇 六、七三〇、〇〇〇
一八八三 一〇、八二〇、〇〇〇 一一、六九〇、〇〇〇
一八八四 九、八二〇、〇〇〇 第一 八、一三〇、〇〇〇
同上 ― 第二 一八、七九〇、〇〇〇
一八八五 二九、二八〇、〇〇〇 五、六四〇、〇〇〇
一八八六 一七、七四〇、〇〇〇 七、七〇〇、〇〇〇
一八八七第一 三七、九九〇、〇〇〇 七、一四〇、〇〇〇
同上第二 一七二、二七〇、〇〇〇 ―
同上第三 六三、〇〇〇、〇〇〇 ―
一八八八 二八〇、〇〇〇、〇〇〇 六、六〇〇、〇〇〇
合計 七一〇、三七〇、〇〇〇 一七七、七七〇、〇〇〇
總計八億九千四百七十四萬マルク
右の外陸海軍の經費として年々に消費するの額も莫大なることならんなれども是は唯租税として國民一時の負擔に歸す可き者なれば姑く論せず凡そ右の如く日耳曼の政府が年々歳々陸海の軍事の爲めに公債を起して殆んど際限なきは縱令へ今日に直接の影響なしとするも聊か永遠の策を講じたらば後に至り必ず其始末に究するの時節ある可し去る七十年普佛の戰爭に今の日耳曼は五十億マルクの償金を獲て其威名の赫然たる實に全歐を震盪せしめたりと雖も翻て内國の事情を視れば莫大の金額一時に日耳曼の金融世界を充たしたる爲め經濟の模樣は不意に動て思はざるの害を來したるより當時の經濟學者は之を評し普漏西人は干戈の戰に勝て却て財政の戰に敗れたりと云ひたることあり今日の談素より之と趣を殊にすと雖も斯く迄に無際限の負債を起して其結局を如何するの見込なりや歐洲の爲めに平和を買ふの其手段は甚だ大切ならんなれども爾くして買上げたる所の平和は後日に至り不廉の平和なるを發見することなかる可きや我輩は爰に記して暫く其成行を窺ふ者なり