「治者被治者(前號の續き)」

last updated: 2019-11-24

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時事新報に掲載された「治者被治者(前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

コ川の治世三百年の間天下に寸分の武器を要せざりしは世界古今の歴史に珍らしき事にして三百年の泰平天下に誇るに足ると雖も其前代に在ては然らず日本國中亂世尚武の世の中にて一敗國を亡すものあり一勝天下を制するものあり功名自在貧富無常の有樣にて百鬼夜行到る所として鬪爭のことを聞かざるはなくこれを西洋中古所謂暗Kの時代に比すべし然るに此騷亂の性質を視るに決して日本全國の騷亂に非ずして唯治者仲間の爭と云ふ可きのみ往古源平の盛衰より中古關原の一戰、コ川の興るに至るまで其戰爭は悉く政權の爭にして即ち今の士族以上治者仲間の騷動にして新田、足利、織田、豐臣又はコ川抔と云ふも之れ皆治者中の名目にしてコ川と云へる治者が豐臣と云ふ治者を倒して之に代はり彼れの握りたる政權を剥で我に取りたるまでのことにして唯一方の治者より一方の治者に政權を移したるのみされば被治者たる人民より之を視る時は天下の政權は矢張り我手に落ちずして尚を彼れの手中にあり彼れの手中にある限りは何人か此政權を執るも固より痛痒を感ずべき筈なく豐臣に拂ひたる租税はコ川に納めざるべからず若もコ川の租税が豐臣よりもェなることある時は之れ唯一時の天幸にしてェなる所以ありて然るにあらず豐臣なれば豐臣に租税を納めコ川なればコ川に納め何れにても人に制せらるゝ身分にして自ら制するの位置にあらず納むべきものは納め取らるべきものは取らるゝが故に天下の政權豐臣に歸するも亦コ川に歸するも更に甲乙の差別あることなし從來豐臣秀吉の名を以て天下に發布せし法律にコ川家康と記名して唯其名を代ふるまでのことなり被治者の眼中豐臣コ川の區別あることなし治者は治者被治者は被治者と判然定りたる區別あるが故に其治者の仲間にて何人が天下の政權を執るも更に差支あることなく今日の豐臣倒れて明日よりコ川の世となるも人民の身に取ては些かの痛痒なし被治者の身分何如にも平氣無頓着にして治者の位置安全なりと云ふべし之を譬へば舅姑の爭の如きものにて其爭の結末舅が家政を執るも姑が權威を振ふも新婦の身に取ては誰に痛痒を感ずることもなく何れにても新婦は家政に参することを得ざる仕組にて舅にあらざれば姑の折〓〓受くべき筈のものと其運命〓〓〓たるものなるが故に〓〓〓〓〓ぶれ〓〓〓〓新婦の爲〓〓〓〓〓〓と〓〓〓其中一方の損する限りは何れが其家政の〓権を握るも更に毫末の差異なかるべし若も舅の折檻姑よりもェなることあれば恰も之れ天の賜にして最初より勘定したる結果にあらざるなり新婦の身分誠に憐れむに堪へたり

我國王代の初よりコ川の末年明治の初年に至るまで社會の事態前段陳述の如し然るにコ川の末年に至り當時の人心何となく動搖して現時の有樣に安んぜず頻に新奇の事物を望むの氣風となり此氣風の外面に顯はれたるものは最初尊王攘夷にして次で倒幕王政となり以て今日まで其脈絡を維持して今日の現政府は此氣風に依て出來たるものなり然るに此尊王攘夷の説を首唱して倒幕王師の率先をなしたる者は日本國中何如なる人物にして何如なる位地の者なりやと尋ぬるに此人種は悉く皆從前の治者即ち士族以上に屬するものにて彼の薩長の壯士なり天下の浪人なり皆な之れ治者の仲間に生れて實際其政治に關からざる者か又は之に關かるも別に大望を抱く者等にして兔に角眞の我國民即ち農工商に對しては固より毫厘の關係なき者なり當時所謂浪人ものゝ中には隨分農工商の中より出でたる人物なきにあらざれども此人物は恰も農工商たる被治者の仲間を脱し其縁故を絶て治者の仲間に加入したるものにて或は彼の長州の奇兵隊の如きは殆ど烏合のものにて百姓町人醫者學者恰も日本國中有りと有らゆる元素を集めたるものにて表面より之を視る時は之を目して被治者の奇合と云ふも可なりと雖も此類の人は從來の治者を倒して自ら之に代らんとの拐~なるが故に其名目は町人百姓にても其拐~は已に還俗して治者の仲間に入りたる者なり故に壯士又は浪人と云へる治者がコ川と云ふ一方の治者を倒して之に代りたるは尚ほ其昔三河の武士が先代の武家を倒して之に代りたるに異ならず即ち其爭は治者仲間の爭にして之を日本全國の爭と云うふべからざるなり試に視るべし彼のコ川最後の決戰とも云ふべき上野の戰爭に東京市民は何如なることをなして何れの方に加擔せしや唯店を鎖し家財を取片付くるに忙しく官賊を區別するの暇なき有樣にして官軍が勝つも賊軍が敗るもコ川が倒るゝも王政が復古するも更に無頓着にて唯一時も早く砲聲の靜まりて家内安全商賣繁昌のみを祈りしことなるべし伏見の騷動奧窒フ戰爭一として百姓町人の關かりしことなし之れ我國古來百姓町人の情體にて更に驚くに足らず織田が亡びて豐臣が興りたる時も其情體は必ず斯の如くありたることならんされば世人は明治維新の騷動を以て我國未曾有のことをなせども余輩を以て之を視る時は決して未曾有のことにもあらず又た日本全國の革命と云ふにもあらず古來我國の歴史中其例に乏しからず唯之れ治者の爭にして從來の治者を倒し新奇の治者が之に代りたるまでのことにて被治者は依然舊に依て被治者の地位に安んじ敢て痛痒を感ぜざるものゝ如し其名は之を何と稱するも決して之を眞の革命と云ふ可らざるなり論者曰く然れども明治の維新は古來武家の興廢と全く其趣を殊にし人心の進歩社會の運動古來我國の歴史中未だ其例を視ざる所なり故に之を稱して我國の革命と云ふも可なりと答へて曰く然らず論者の所謂人心の進歩社會の運動なるものは之れ明治維新の結果にあらずして全く基本を殊にし〓〓〓の〓〓に依て然りしものなり他の原因とは〓が〓開國貿易外國の交通之れなり人或は此外國の交際を以て其原因を明治維新に歸するものありと雖ども之れ唯物の表面のみを視て其條理を考へざる人の淺見にして取るに足らざる説なれども今試みに之を論ぜん抑も嘉永年間米國の水師提督渡來以來今日の外國交際に至りしは一部一局の原因に依て成りたるものにあらず世界の形成頓に進歩して文明の利器其力を逞ふし緩慢たる帆船に代ゆるに迅速なる蒸汽船を以てし萬里の波濤も僅々數十日にして渡るべし印度を以て世界の極端と思ひし者も今は容易に日本海に來るの勢となり今まで世界に日本國と云へる嶋國のあることを知らざりし者も今は其日本國の何邊にあるを知り其産物の何々たるをも知り恰も世界の廣きを遽に狹めたる有樣なるが故に此外國の交際は内より開て之を求めたるにあらずして天下の時勢我に迫りたるものなり到底出來難き相談なれどもコ川の政府をして尚を今日にあらしめなば其勢必ず國を開て外國交際の自由なる今日の如くなりしことならん一度び國を開けば人心の進歩社會の運動は自然に行はるべし今日の文明決して之を一政府の更迭に歸す可らざるなり此外物の刺衝たる開國外交の一事を論外に措て唯明治の騷動のみを視る時は之を武家の更迭治者の爭と云ふも敢えて事の條理に於て違ふことなかるべし(以下次號)