「米國商賣」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「米國商賣」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

米國商賣    森下岩楠草

近年商業の爲め自から米國に渡航し又は商品を直輸出するもの日々に多きを加ふるに至りたるは頗る祝すべきことなり我邦維新の際に當り秩序一變百事皆舊套を脱して新規に改まる中に就て物價の如きも衆人の意表外に一時平衡を失ひしより其機に投じて奇利を博したるもの寡からざりしかども爾來廿有餘年の今日社會の秩序漸く整頓して新舊事業の興廢も漸く定まるに就ては物價の昂低復た維新の際に於けるが如く激烈ならずして商賣社會に奇利を再びするの餘地なきものゝ如し况して近年の商况は唯不景氣の歎聲を聞くのみにして假令へ回復の期に逢ふことあるも漸進の外に妙手段ある可らずとは實地家の所説にして違ふことあらざれば今の商人が如何に工風を凝らして如何に勉強すればとて之を維新の初年に比較するときは勞は倍して功は半なりと云はざるを得ず之を要するに今の内地の商賣世界は最早俗に所謂切詰たる有樣にして恰も商略を逞ふす可き塲所の減縮したるものなれば苟も少壮活溌にして才能あり氣力ある人物が商賣に從事して其技倆を試み數年の間に商戰勝利の功名を成さんとするには外國商賣に從事するの外好方便なきことゝ知る可し

外國の貿易は内地の商賣と違ひ其區域甚だ廣くして殆んど際限ある可らず各國物産の長短有餘不足その事情を視察して彼我の需に應し其中間に立て正當の利益を博するは商家の功名、人生の一快事なれば英佛獨伊の貿易甚だ善し支那の商賣決して等閑に附す可らず何れも大切なるものなれども特に輸出商賣の前途を卜すれば我輩は米國の市塲に最も望を屬する者なり抑も米國は土壤廣くして人民既に多きが如くなれども建國以來日尚ほ淺く其國の運命は今正に進歩の最中にして今後の資力は年々歳々人口と共に攝Bして際限を知る可らず且現今の國民は悉く在昔移住民の子孫にして今尚ほ之に加ふるに毎年の新來者を以てし新舊既に同しからざる其上に各國よりの來者は各その言語習俗を殊にし一社會なる合衆國中無限の異同を呈しながら其異同を問はず其新奇を怪しまず偏に人々の自由自在に任することなれば商賣の慣行も自から雜駁にして未だ全國に一定したるものを見ず之を彼の歐洲の古國に比較するときは大に趣を異にして日本の如き商工業法の新規未完全なる國人は秩序整然たる歐洲に向ふよりも雜駁不整頓なる米國に投する方、却て大に便利なる可し然かのみならず目下歐洲の形勢を察すれば獨逸と佛蘭西との關係は益々殺氣を加へて露西亞と墺斯太利の關係も動もすれば破裂に至らんとし四方の暗雲日々にいよいよ暗くして霽るべき見込もあらざれば當局の國々は勿論これに界を接する國々も相競ふて軍備の擴張に忙しく古來商賣國なりとて世界中に誇りたる英國すら國防の薄弱なるを患へて之を論するもの續々輩出し國防の事は遂に國會の重要問題となるに至れり左れば歐洲の商賣は戰爭の陰雨未だ到らざるの今日既に大に妨害せられて其驥足を伸る能はざるのみならず一朝破裂するに至らば其慘状如何なる可きや百事瓦解生民その業に安んぜざることある可し之に引き替へ米國は遠く大西洋を隔て西半球に位して百般の制度自から別に一天地を成し他の政事上の影響を受ることなければ商賣も百年一日の如く曾て動搖なきのみならず時としては商賣上に他の禍を轉じて自家の福と爲すこともある可し又巴拿馬運河の開鑿、露國サイベリヤの鐵道にして愈々其竣工を告るに至らば歐洲諸國と日本との間に交通を速にして隨て其商賣にも大なる變動を催ほすことならんとは已に人々の豫想する所なれども左るにても日米の間は地理に於て單に太平洋を隔るのみにして汽船の往復は自今益々頻繁を加へ航海の日數も造船學の進歩と共に愈々減少することを期すべければ米國の商賣は前途滿目の望に乏しからざるものと云ふ可し近來我國の商人も次第に同國に注意して往來も繁く物品の賣買も揄チするとの事なれば我輩はますます此望の空しからざるを信ずる者なり