「法は以て民福を造るに足らず」
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時事新報に掲載された「法は以て民福を造るに足らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
法は以て民福を造るに足らず
在ボーストン某生
聞く近頃英國に於ては有限の會社條例を改正修成して稍舊の無限責任會社の條例に復せんとの議論頻に朝野の間に行はれ已に其議案を議院に提出したりと抑も英國に於て此有限責任の會社條例を制定したるは誠に近年のことにて實に彼のグラスゴー銀行の破産後に發布したるものなり同銀行は勿論無限責任の會社にて若しも其會社に破産等の事變を生ずるときは先づ其株金を以て債主に償ひ尚ほ是れにても足らざれば株主たる者は各々其資産の有丈けを出して以て債主に償ふべしとの約束を以て組立たる者なるが故に扨實際破産と披露したるとき株主の災難は中々容易ならざることにして之が爲め英國中に家産を奪ひ去られたる者は幾千人の數あり實に近年珍らしき大騒動にて中には聞くに忍びざる慘状を呈したる者少なからず僅か同銀行の株券一枚を所有したるが爲め幾十萬磅の資産を失ひ昨日迄は豪家なり金滿家なりと世に稱せられたる人も一朝の倒産に妻子離散して遂には貧院の露と消え失せたる人もありしと云ふ是に於て朝野共に無限責任會社の不利有害なるに心付き遂に有限會社の條例を議定するに至りしことなり會社の責任有限なるときは假令へ其會社の事業不仕合にして資本の幾倍を損することあるも株主たる者は唯其株金を損するに止まりて百圓の株券一枚を所有する者は其所有高の百圓丈けを失へば其餘に損毛を蒙るの憂なく誠に手輕に資本を集て手輕に之を費散し以て新奇の事業危險の商賣を企るの便益を與へたり然るに近頃に至り何故に此有益なる條例を改正せんとの議論朝野の間に起りたるやと云ふに一利一害が到底人間の事柄に免かるべからざるものと見え手輕く會社を設立することを得れば分散することも亦手輕き譯にて會社の設立は日一日に增加し中には隨分怪しげなるものも澤山ありて無智の人民は其會社の善惡邪正を糺すの明なく往々山師の手に掛りて大切の蓄金を皆無にする者少なからず南亞非利加市街夜燈會社、太平洋金鑛會社など雲を掴むが如き取り留もなき會社の續々生ずるに依り若し此儘に捨置く時は後日に大なる惡弊を生じ遂に正當の商賣は其跡を絶ち株の賣買のみを目的として事業の成否を問はず倫敦市塲恰も博奕塲となるの恐あるが故に何とか工風して此弊を未發に防壓せざるべからず之を防壓するには現行の條例に修正を加へ以て容易に會社の設立を許可せざる仕組に爲さゞる可らずとの意見より遂に此議に及びたるなりと云ふ此新條例制定後の成行は果して如何なるべきや今より其結果を豫想すること甚だ難しと雖も兎に角に英政府の狼狽窺ひ視るべきなり乍併政府の狼狽は獨り英政府のみに限らず世界萬國今正に狼狽の最中にて一進一退夢中廣原を渉るに異ならず此處に斯の如き弊害あり法律を以て之を制せざる可らずとて一の法律を制定すれば又此法律に由て他に新奇思はざるの弊害を生じ一法一弊益々法律を嚴重にすれば弊害の數益々增加し遂に世の學者をして政府なるものは人間社會に不用のものにはあらざるやとの疑念を起さしむるに至れり試に觀よ古來政府が人間社會に利益を與へたるの實例ある歟今日まで人間の進歩したるは果して政府の力に依りたるものなるか英國の富有天下に冠たりと云ふ其富有は果して英政府の致したるものなるか米國の人は進取の氣風に富むと云ふ其氣風は果して同國大統領の造りしものなるか或は我日本國の開國も我政府の力に依て成りたるものなるか甚だ以て疑はしき次第なり抑も政府たるものゝ本色は唯惡を止むるに在て決して善を進むるに在らざるは勿論其惡を止むるにも道德上の惡を止むるにはあらず唯惡心より生じて然かも社會に對する惡業を防壓するに止まるのみ其職分の區域甚だ狹きものと知る可し本來英政府が有限責任の會社條例を發行して會社の設立を便にし以て大に國益を興さんなど思立たるこそ第一の間違なれ英の政府中何程の人物あるか一片の條例以て國益を興すべしと思ひたるは即ち政府たるものゝ本色を誤り政府の力能く善を進むべしとの誤見に出でたるものなり抑も國民全體の智力と政府の智力とを比較して之を見るに其智力は常に人民の方に多くして政府に少なきは古來の實驗今日の現状に照して甚だ明白なることにして漠然政府とさへ云へば如何にも大層のものゝ如く思はるれ共元來政府と名くる其物の有るにあらず國民中の數人が寄集まりて一種の仕事を取扱ふ其寄合を總稱して政府と名くるのみ故に政府は人民の一部分にして人民は其政府を造出せし本源なり即ち人民は主にして政府は客なり、人生れながらにして官員となるべき資格を有するにあらず、此人は官員なり彼人は人民なりと天より定まりたる資格あるにあらず、偶然の事機に依て官員と爲り政府の位地に立たるまでのものなれば他の同國民に比較して更に異なる所ある可らざるや明なり然るに此寄集りたる數人のものが自から客位に在りながら同國民の世話を引受け其惡事を防壓するの分界を越えて分外にも之に幸福を授けんなど思付きたるは誠に大間違の談なれども如何なる人性の奇相にや頻に政府を視て大層なるものゝ如くに認め何か國中に不都合の事あるか但しは一部の人の身に難澁と感ずるときには直に政府の力を以て其不都合を正し其難澁を救ひ以て萬福の到來を待つは今日普通の人情にして政府を視ること鬼神の如く只管これに祈願依頼して事を爲さんとして却て益事の不都合を生ずる其事情は恰も胃弱の人が身の養生を知らずして單に醫藥に依頼しますます服藥してますます體力を減損するに異ならず此胃弱を治療するには醫藥の力を頼まずして唯自から進で其身を運動し以て食物の消化を助くるの一方あるのみ況して其醫者も所謂國手名醫にして人體の規則をも辨へたる者なれば聊か以て頼にする所なきにあらずと雖も其技倆は大抵病人自身と異なる所なきのみか身の平生を知り體質機關の働を詳にするの點に於ては患者の自から診斷する方、却て確なるに於てをや今の世界に於て文明の先達と稱する英國に在てすら其狼狽尚ほ前陳の如し未だ其門にも達せざる我日本國の如きに在ては何事も差置き政府の法の少なきこそ一國全體の幸福なれば國民たる者も政府に依頼して福を求るの念を斷ち唯法律規則の繁文を除て不都合を免かるゝの消極策を講ず可きのみ