「凶荒の用意如何」
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時事新報に掲載された「凶荒の用意如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
凶荒の用意如何
凶荒の害の恐るべきは今更申す迄もなく人々の知る所なれども我國にて天保七年の全國大饑饉は今を去ること五十二年前にして其後今日に至るまでは未だ大饑饉と稱する程の凶歳に遭はず今の少壮の人々は唯その害の恐るべきを耳にするのみにて其恐るべきの實を見ざるが故に恐怖の感覺も亦隨て薄からざるを得ず我輩今その恐る可き次第を説かんとするに當り偶ま偶ま文政年間の刊行に係る下野黒羽の人鈴木某が著したる農喩と題する古本を得たり其中に天明三卯年大饑饉の有樣を記したるものを見るに當時の凶荒の慘状を悉し其害の恐るべきを知るに足るものあれば左に其數節を抄出して讀者に示すべし
(前略)卯年のきゝんたりしをつくづくと思ひ見れば近頃の樣に覺えしに年月は早くも過行て已に廿三年になりぬ實に光陰は矢の如しといへりさあれば此きゝんの難はいつ來べきもはかりがたければ今にも來りて又もやうき事を目の前に見るならばいかほどの苦患ともいふばかりなき事なれば恐れうれひてかりにもわするべからず但卯のきゝんも此近國關東のうちはいまだ大きゝんとはいふにはたらず其故は秋作の實のりも少づゝはありてとりもし又御領主方より御救の米穀および友救の雜穀等もありし故食餌のたえてうゑ死にせしといふほどのものは一人もなかりければ也扨又奥州等の他國にはうゑ死にせしが多くありけりわけて大きゝんの所にては食物の類とて一色もなかりければ牛や馬の肉はいふに及ばず犬猫までも喰盡しけれどもつひに命をたもち得ずしてうゑ死にけり其甚所にては家數の二三十もありし村々或は竈の四五十もありし里々にて人皆死に盡しひとりとして命をたもちしはなきもありけり其なき跡を吊ふ者なければ命の終りし日も知れず死骸は埋ざれば鳥けだものゝ餌食となれり庭も門もくさむらと荒て一村一里すべて亡所となりしもありかく成果て見る時はこれに過し悲はなし然を其由を知らぬ人などは何ほどのきゝんたりといふともさまでの事はあるまじきと思ふもあらんが其疑ひをはらさせんために我慥に聞き届けし事を示す事左の如し
右卯年きゝんの後上州新田郡の人に高山彦九郎と云ひしあり奥州一覧の爲め彼國に至りこゝやかしこと經めぐりあるきしがある山路へかゝりしに踏まよひて行べきかたを失ひ難義のあまり高き峯によぢのぼりて山のふもとを見渡しければ山間に人家の屋根のかすかにあるを見つけしかば心悦で草木を押分けつゝやうやうとしてふもとに下りしに其村里に人とてはひとりもなしこはいかなる事にやと見まはせば田畑の跡は茫々たるくさむらとなり家々は皆たふれかたふき軒端には葎などはひまとはれりあやしと思ひながら空家に入りて見れば篠竹など縁をつらぬき出たり其間々に人の骨白々と亂れありしを見て目も當られず大におどろきいと物凄おぼへければ身の毛よだちて恐れをなしとくとくそこを走出人住む里へと志し路を尋けれどもあれはてたれば其あたりには路がたちたえしゆゑ大に苦みしが路らしきにたづねあたりとやかくとして人里に馳着始て人心地となりけりかくあれば奥の方のきゝんたりし餓死の樣子は關東へ聞えしよりも直に其所を見ては殊更におどろかれ恐しき事共なりとの物語なりし
前略(抑此しけは六月の始より九月の末まで四箇月におよびけるこそうたてけれこゝに至りて諸作物の色益かはりて實入らずまづ稲穂はそらたちしてたれこゞみしはなく所によりてはまれまれに少しの實入しがあれども久しく長しけにあひたれば其寒風にいたみしと見え米となしても其性ぬけたればくだけやすく飯に炊ても酢味あるひは甘味ありてつねの米の風味にあらず其外の雜こくとてもこれに似たり又根や葉を用ふる野菜のたぐひも不熟たりし事は相同じかりければつひには秋の作毛すべて皆無同然となりはて上も下も穀食に乏しく倉廩空して人々多く飢に及びしかばきゝんの大難此時に至れりとかなしめる事のみにて其なげきの甚さ言語にたえし世となれり凡民は貧して貯なきが多き者たれば忽にうゑに臨めりせめてはうゑを凌がんとて蕨の根葛の根又は野老の類をほりとりつゝ扶食とせり其求むる有樣は山に登り谷に下り其辛勞限なり其上製しこなす事もたやすからず一日のかせぎにて一日の食に當りかねたり又栗柿しだみ樫の實くぬきの實を拾ひ其外木の葉草の根をつみなどして凡人の口へ入るといふものとだにきけば何によらずくらひつゝ只命をつなぐ事のみなりかく千辛萬苦して心を勞し力を盡しけれども尚ほ其飢を凌ぐに足らずありしかば食物を假むとすれどもきゝんは世間一同たればいづ方にてもこくもつとては不足ゆゑに借人なし金錢とても殊に不通用たれば假借の道たえて一粒一錢も不自由の世間となり人の命實にあやうく見えたりけり云々
(前略)此時道にゆきたふれてうゑ死せし者おびたゞしく有けり其中に一人の男ありしが衣類を始身のまはり腰の物に至る迄美々しくなみならざる出立ゆゑに其所の者死骸を見届ければ金百兩をくびにかけありしと也さあれば多くの金を持ちし人くひ物を求めんとて旅に出しと見えたれどもうゑをしのぐべきわづかの一飯を得る事あたはずしたかく餓死せしと察せられたれば殊に殘念なる事なり百兩の金を身に添へし人だにがしをまぬかれざりし有樣かくの如し貧乏人のがしせしはなをすみやかならんとおもひやられしとなり云々(此一節は享保十七年の事を記したるものなり)奥州の中にてもきゝんの甚しき村々の者どもくふべき術のなきはこくもつの少しもありときゝおよべる所へはるばると志して家内皆つれだちてこじきに出しが多くありしときこえけり其中にわきてとぼしきは金錢もなければ途中にても食餌にとほざかり日をかさねしにつれて身のおとろへはてし上遠路のつかれにたえがたく山路などにゆきかゝりてたふれ死せし者おびたゞしくありけりかくていづこのたれと云名もしれず尋ねとふべき人もなければつひには鳥けだものゝえじきになれりいとあはれなる事なりし又家を去ずしてありし者も中にはうゑにたえかねて自からくびをくゝりて死しあるひは井戸川へ身をなげて親に別れ子をすてゝ死せし者いくばくといふ數かぎりもなかりし殊にいとけなき子のうゑしは乳房をくはふれども母も食に遠ざかりし事なれば乳もたえて出ずさあれば子はうゑにせまりてちぶさをくひきり又は父のもゝなどにくひつきてやみ犬のごとくなるゆゑせんかたなくひつ長持の類におし入れおき死するをまちて打捨しも有しとかや云々 (未完)