「世界は廣し交通は速なり」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「世界は廣し交通は速なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

世界は廣し交通は速なり

里諺に臭い物に葢をすると云ふことあり此意味は何分にも此物は臭くして鼻持ちが出來がたきに依て之に葢をして其臭氣の外に漏れざる樣にす可しとて下女に云ひ付け其物に葢をするも臭い物は矢張り臭くして到底他人に嗅ぎ付けらるゝものなるが故に臭い物に葢をするは無益なりとのことを手短く譬へたるものならん左れば臭い物に葢をするは誠に以て姑息の策なるが故に若しも眞に其臭氣を厭ひ其外聞を憚らば其物を捨るより外に手段なかる可しと雖も扨その物を全く捨ると云ふことは容易に出來がたき事にて内君の意見もあり老人の異存もあり又主人の心に決し難き塲合ありて一心には其無益を知りながらも又一心には之を惜しみ遂に之に葢をして外見を飾らんとするの姑息策に出づるもの多し思ふに人間は理を言ふに強くして之を行ふに弱く理屈と行為とは常に符合せざるものなり例へば國政の利害の爲めに其國の内輪に苦々しき軋轢を生するなどは餘り外聞の宜しからざる次第なるが故に成丈け其事の外國に漏れず外人の耳に入らざる樣に爲し度きは國民一般の心ならん所謂憂國心など云へる氣風も即ち此人心の働を指したるものにて誠に美なりと雖も又一方より人情世界の有樣を通看するに凡そ人の蔽ひ隱さんとするものは必ず現はれ易きの常にして秘密々々と思ひしものも何時しか世間の知る所と爲り却て大に失望するの事例は古今に珍らしからず殊に今日は蒸氣電信郵便の世界にして交通ますます劇しき其一例を示さんに吾々は數年來當國に居る者にして故郷よりの來書も稀なれども何か日本に出來事のあるときには其通信早くも當國に達して事明細に各種の新聞紙に記載しあるが故に在米の日本國人は其新聞紙を讀で始て事柄を承知する抔の奇談少なからず又日本人にして留學の爲め又は徴兵遁れの爲め又は我社會の究屈なるを避けんが爲め樣々の目的を以て橫濱の對岸桑港抔に渡航の便利なるは昔日田舎の書生が東京に留學するよりも容易にして其費用も亦多からず船賃は僅に五十圓日數僅に十五日以て我國を辭して自由の里に遊ぶべきが故に毎便渡航の數を增して現に桑港には日本人の宿屋もあり料理屋もあり待合所も出來て殆ど一部落を成さんとする程の勢なりと云ふ然るに此渡米人の中には内輪の面白からざる事、外聞の宜しからざる事を外人に通ずるの媒介となる者もありて或は演説する者もあらん或は新聞を記する者もあらん憚る所もなく滿腹の意見を吐露して遺す處なく止めんとして止むべからず防がんとして防ぐべからざるが故に善となく惡となく我國内に有るとあらゆる事柄は忽ち外國に通し世界の人の口の端に掛るものなりと覺悟せざる可らず或る日本人が米國に於て其地方の新聞紙に我日本の國情を投書したるに日本人中には之を悦はずして切齒扼腕そのまゝには捨て置き難しと云ひたるよし傳聞したれども是れは量見の狹き話にて右の國情は其醜美に論なく唯珍らしき事にさへあれば傳へ又傳へて忽ち當國の新聞紙に上る可し何ぞ必ずしも獨り其投書のみを咎るに足らんや臭き物にても芳しき物にても之に葢するは盖し今の交通世界に於て人力の能くせざる所のものなり我日本國には新聞紙又は演説に付き取締の條例あり今其得失論は姑く擱き此條例をして十分に行はれしめて曾て法に觸るゝ者なしとするも唯國内に在て然るのみ一葦水を隔てゝ海外の始末は如何す可きや况んや内に靜なる者は却て外に騒しきの事例さへあるに於てをや例へば多年來公私學校の樣子を見るに規則の嚴なる學校の生徒は其校内に在てこそ品行方正なるに似たれども一歩を校外に踏出して規則の綱を脱するときは其亂暴醜體見るに忍びざるもの多し之に反して學校の風俗窮窟ならず都て規則に依頼せずして生徒の品行を其自尊自重心に任ずるときは學校内外の別を以て行状の醜美を殊にすることなく儼然として自から紳士學者の品格を失はざる者多し亦以て人心の働の一斑を窺ふに足る可し吾々は久しく當國に在留して近來ますます日本人の增加するを目撃し交通世界の劇變を感すると共に一片の愛國心は故郷を忘るゝ能はず本國に在る上流の長者をして少しく其眼界を廣くせしめんことを冀望して遙に一言を呈するのみ