「米國雜説 一」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「米國雜説 一」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

米國雜説 一

凡そ西洋の人情風俗には概して表裏の二面あり其裏面に就て見れば笑ふ可きもの罵る可きもの甚だ多き樣子なれども之を笑ひ之を罵るは無益の談なり余は先づ其表面に現はれたる者を記し本邦人をして他國人の所長を知らしめんことを望むものなりおカメの欠伸をみて是れは醜しと評するも益なし、西子の顰を見て之れに倣へと云ふ即ち余の本旨なり

六月十二日 英國倫敦に於て 高橋義雄

米國雜説 一

商賣主義

古來社會變遷の有樣を見るに何れの國にても一時或る主義の其社會を支配して人事萬般恰も之を標準として運動することあり即ち我邦封建の時代に尚武主義忠孝主義など稱するものありて毀譽榮辱人事の進退總て此主義を標準としたるが如き其一例として見る可きなり扨て今試に米國の社會を見て如何なる主義が之を支配するやと尋ぬるに他なし唯一の商賣主義あるのみにして政治學問宗教藝術其他社會萬般の事皆な此主義を離れざるものゝ如し即ち政治は簡單にして政府の官吏が人民の委托を受けて夫れ夫れ其事務を經營する有樣は商家の手代が主人の爲めに周旋するの趣に等しく又學問は利租實益を旨とし理化學を修むるものは専賣新發明の利益を期し法律家は代言人たらんことを望みて器械建築の學生は鐵道土木其他の技師たらんとし學費は恰も商賣資本に一部分なりと覺悟するものゝ如し又彼の寺院宗教の事は人生の最も高尚なる部分にして商賣に縁なかる可き筈なれ共凡そ米國の習慣として信徒が或る寺院を建立する時は先つ其住持の給金を定めて之を或る僧侶に相談することなり斯て其僧侶は給金の多少を見て其去就を決することにして報酬多ければ其聘に應じて往き追て他に好寺院を見出すときは衣を拂ふて之に轉ずるなどの塲合もあり或は日曜日の法壇にて坊主が信徒に寄賦金の多きを促し名僧一夕の説教に幾百弗の報酬を得るなどの趣は幾分か商賣主義に縁ありと云はざるを得ず又彼の美術工藝の士には何れの國にても風雅洒落の氣を存するもの多く與可竹を畫くの時、〓然として其身を遺るとは畫家が其精神を凝らすの意にして五日一石を畫き十日一水を畫くとは美術の能事愛促迫す可らざるを示したるものならん左れば商賣主義を以て斯道の人を束縛することは思ひも寄らぬ次第なる可しと雖も商賣主義の勢力は實に案外なるものにして其中に起臥するものは知らず識らず時是れ金なりとの思想を生じて意匠の高きを弄せんよりは寧ろ潤筆料の多きを撰むに若かずと觀念するの傾なきを得ず左ればにや佛國の畫工某氏は先頃中米國に滯留せしが斯かる國に生活すれば忽ち其筆力を損するの恐ありとて早速本國に逃げ去りたりと云ふ亦一奇談ならずや或は去て文章藝術の部分を見るも亦皆な商賣主義を存するものゝ如く試に米國人の手に成りたる小説傳記を讀み亦其演劇の趣向を見るに銀行破産して富家忽ち零落し惡漢善人の名を詐りて巧に其財産を奪ひ投機其圖に中りて貧富忽ち其地を換へ商品の取引に手違を生じ偽證文を受取りて家事に齟齬を生ずる等其脚色總て金錢商賣に關せざることなき其趣は日本古流の脚本家が御家の寶刀菊一文字を外にして別に新趣向を出すこと能はざるが如し英人某氏の亞米利加旅行記中にも目下米國にて興行する演劇の中にて趣向の優美高尚なるものは悉く歐洲より來りたるものなり云々の説あり即ち目今米國にては政治文學宗教藝術其他社會萬般の事孰れも皆な商売の主義を存し人事一切この主義を標準として運動するの實あるを見る可きなり

前記の如く米國は商賣建國の國柄なるが故に其人民の氣風も亦自から金錢に鋭くして所謂逐弗奴の類も少なからず學校の教師が名を生徒の人名帖に録して其潤筆料を取るものあり添書を認めて錢を取り道を旅人に教えて錢を取り野外の散歩に巻烟草一本を與へたりとて其代價を友人に乞ふものさへなきに非ず之より以下極端の例を示すときは流石拝金宗の著者にても聊か閉口せざるを得ず或る人の評に米國人は上下貧富を押し並べて額にmoneyの字を彫刻せざるものなしと云へり更に之を云ひ換ふれば米國人にして眉間にmの字の皺を寄せざるものなしと申すも可ならん左れば卒然米國に來りて卒然此氣風に接し忽ち厭惡の念を起すものあるが如くなれども利弊相伴ふは人事の自然、末流の一弊を見て此氣風より成就する所の大事功を忘却するは余の取らざる所なり余ツラツラ米國富豪者の心事を案ずるに彼れ唯金錢其物を得て然して形而下衣食住の快樂を得るを以て畢生の目的とするものに非ず人生五十電光石火の如し此間肉體の豪奢を買ふは數百萬金にして足る可き筈なり即ち彼の富豪者は足るを知りて外に求むる所なかる可き筈なれども愈々富んで愈々勤め殆んど其底止する所を知らざるは何ぞや商賣の國には亦自から商賣上の名譽あり苟も功名心を有するものは進んで之を爭はざるを得ず斯くて彼等が新業を起し又は投機を試むるときは成敗利鈍孰れも其面目に關することにして商略勇斷其國に中れば彼等商人社會にては往時戰國尚武の世に宇治河の先陣、賤ヶ嶽の一番槍を試みたると一般、天晴れ天下の勇商として世に其面目を生ずることなり之を商家の榮譽と云ふ文明商人の珍重する所なり斯くて功成り名遂ぐるの日に彼れ其私財を抛て學校病院を創建し或は公園を修築し書籍文庫を設立する等公共慈惠の大事功を遺して名を後世に傳ふるは古代戰國の帝王が戰勝て記念碑を立て或は泰山に封禪するの趣に異ならず而して其遺業の社會に顯はれたる所は即ち文明の美觀にして此美觀の來る所を問へば亦唯商賣主義の返射より外ならざる可し思ふて此に至るときは區々たる末流の弊習は固より顧みるに暇あらず余は國の富強文明を目當てとして我日本國にも大に彼の商賣主義の流行することを祈るものなり