「官報第千五百三十四號を讀む」
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本文
官報第千五百三十四號を讀む
本月九日の官報に
一昨七日内務大藏文部三大臣より高等中學校經費を地方税に於て分擔する儀は來二十二年度以降當分これを止むる旨府縣知事へ訓令せり
とあり是れは明治十九年四月九日發中學校令(勅令第十五號)第五條に高等中學校の經費は國庫より之を支辨し又は國庫と該學校設置區域内に在る府縣の地方税とに由り之を支辨することある可し但し此塲合に於ては其管理及び經費分擔の方法等は別に之を定む可しとある其趣意に基き右發令以來分擔法に從ひしものを改めて二十二年度以降は國庫の支辨に歸したることならんのみ世間或は事の次第を知らずして遽に三大臣の訓令を一讀し方今民力疲弊の折柄、中學校費の分擔を免かるゝは人民の利益などゝ思ふ者もある可しと雖も唯是れ學校設置區域内の地方税を輕くするのみにして全國の經濟上より視るときは何も喜憂するに足るものなし之を一商店の事にして言へば何々の雜費は是れまで本店と支店と半高づゝ出合せたれども向後は本店一手持と定めたるまでの事にして其雜費の總高に增減なき限りは商店全體の計算に利害はある可らず故に彼の三大臣が府縣知事に訓令して地方税の分擔を免じたりとて今後これを國庫一手の支辨に歸するときは日本政府と名くる全體の經濟には減ずることもなく增すこともなく日本國の高等中學校に費す所の金は相替らず日本國民の税より出るものと知る可し或は地方にて學校費を課するには特に其費目を掲げて人民より取立れども國庫に之を引受るに於ては學校費と稱して別に歳入を促すに非ざるが故に自から人民の利益なりとて強ひて説を作す者なきにあらざれども畢竟物の數を知らざる者の考にこそあれ本來一國政府の國庫にある金は一錢たりとも國民の手より出でざるものなし國庫に一錢を費すは即ち國民が一錢金を費すことにして其名義の如何を問はず其出納の前後に論なく國庫に費すものは詰り國民の負擔に歸するが故に中央政府が特に高等中學校費と稱して徴収することなきも其消費の一段に至りては毫も地方税に異なるものある可らざるなり
左れば今回の訓令は官民の經濟上に數の增減するものにあらずとして扨高等中學校全體の問題を設け經濟上より之を論して其得失如何を尋ぬるときは我輩は其利益を見ざるものなり方今全國に高等中學校の數は第一より第五に至る五校にして本年度の經費を見るに通計三十萬圓の内十五萬圓は國庫より出だし十五萬圓は地方に課するものなり即ち此三十萬圓は日本國民が日本國民中の少年に中學の教を授るの費用にして其少年生徒の数五校合して凡そ千五百八十三名(昨年末の調査)なれば三十萬圓を千五百八十三に除し生徒一名に付き其費す所一年百八十九圓餘なり即ち日本國民は高等中學生徒一名を教る爲めに毎年百八十九圓餘を消散するものなり國庫金と稱し公共の姿を以て一處に集りたる幾千萬圓の大金を目撃し出納すればこそ殆んど無盡蔵の如くに見ゆれども假に日本國民〓貧富を平均して之を一個人と見做した〓〓〓〓〓果して〓〓か〓〓か世〓〓〓〓〓ある〓〓〓〓〓〓〓にあらず〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓百八十九圓金を〓じて子〓〓〓〓〓〓力〓〓〓きや我輩は斷じて其〓力を讃して世〓〓も物の數を知る人ならば敢て爭ふ者なかる可し之を一個人の家計にすれば無力なりと云ひながら公共の經濟にして何故に有力なるや我輩は其數理の在る所を知らざる者なり或は斯る大金を費して高等中學に奉ずるは日本に文明の教育を勸る爲め臨時の策なりと言はんか其旨は數十年前開國の當分に通用す可きのみ今や文明の向ふ所は天下に敵なし高等教育の如きも世の風潮に從ひ他人の奨勵を俟たずして之に就く者乏しからざるのみか往々其多きに苦しむこそ今日の實相なれば政府も能く時勢の變遷に注意して國財を費すに吝ならんこと冀望に堪へざるなり高等教育の奨勵は今日に不急なるのみならず之を國人の私に任するときは家産豊にして志ある者が其子弟の就學を謀り、學成り世に立つの日は即ち有財有識の男子にして經世の用を爲す可き筈なるに今の實際は公共の資金を費して却て寒貧生の就學を便ならしめ其成業の後は無産有才の書生を生す可きのみ知字憂患の媒介にして本人の不幸のみならず社會安寧の爲めに謀りても得策にあらざるが如し左れば今回三大臣の訓令を以て校費の分擔を止めたるは我國民に於て毫も喜憂するに足らずと雖も其校費に就ては政府中多少議論もあることならんなれば我輩は此機を空ふせずして全國の高等中學校を全廢して國庫即ち國民の嚢中を富ますに三十萬圓金を以てせんと欲する者なり