「ブーランジエー論」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「ブーランジエー論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

ブーランジエー論     在倫敦霞岳生寄

將軍は佛國の一武官なれども近年政事社會に頭角を現はして其威名は全歐洲に鳴渉り何れの處の政治界にも將軍の一擧一動は人の注意を惹かざるなし况して本國に在りては其評判の高き云ふを竢たざる次第にして何れど宴會茶席に論なく又何れの新聞雜誌を問はず到る處に將軍の名聲を聞かざるなく從て毀譽褒貶の其身に聚まる者少なからずして世人は將軍を大公と稱し或は救世主と呼び若くは今ジョアン ダーク或は偽聖マヤー抔名けて佛蘭西の國語に一のブーランジエーなる新語を加へ政治家は申すに及ばず婦人老幼に至る迄も其名を口に唱へて其人物を心に關するとは亦盛なりと云ふ可し將軍の名聲人望は一方に斯の如く盛なれども然れとも都會と地方との別に依り其趣を異にするの觀なきにあらず即ち巴里に在りては寧ろ反對者多けれども之に反し各地方に至る時は其聲望實に大なりと云ふの外なし而して將軍を信ずる者の種類に依りて之を分つに教育あり智識ある人々は多く將軍を疎んずれども之に反し無學卑賤なる下民の尊崇は實に鬼神の如しと云へり斯る次第なるが故に佛國にて近來流行のブーランジズム(Boulangism)なる一種の新語は其解釋頗る困難なる者にして黨派と謂はんか將た主義と唱へんか若くは政略と名けんか何れも不當の訓にしてブーランジズムは人に非ず物に非ず將た無形の人望にも非らず政治上、社會上、國交上に概して無關係の文字なれば如何なる定義を下すべきや適當の文字なきなり再言すればブーランジズムの主義には旗幟綱領なく又其主義の代表者に威名あるが爲にも非ず唯、今の第三共和政治を敵にする者の結合雷同してブーランジズムなる題目の聲援を借るに過ぎず方今佛國に在りてはパナマ運河、蘇西堀割の如き大工事を談ずるに當り人皆有名なるドレセップ氏を知らざるなきが如く佛蘭西共和政治の弊を論じ又その改良を計らんとするの談緒には必ず將軍の名を唱へざるはなし其異なる所はレセップ氏は既に蘇西の業を了り又巴拿馬の土工成功せしめたれとも將軍は佛國の政治界に未だ見る可きの事業なきのみ抑も將軍は一個の人物としては申條なき美質にして今日までも陸軍部内多數の兵士に人望の盛なりしこと論を竢たず佛國の名士某は此頃將軍を評して曰く將軍は男子に愛せらるゝ色男なるが故に自身の望む所に任せて或は非常の軍人たるを得べし、然れども今日迄未だ軍人たるの實を示さず、或は非常の政治家たるを得べし、然れども未だ政治家たるの能を示さず將た將軍は主義政略を持するの人に相違なけれども今日まで秘して之を世に示さざるのみならず自ら任ずるに政談者を以てせず又新聞記者を以てせず議論家ならず理想家ならず去迚一黨派の主領者にも非ず、其著書若くは演説は將軍自身の言文ならずして實は雄辨なる法律家と博識なる新聞記者と將軍の爲めに影武者を勤むる者なれども去迚將軍は今日迄判然たる政治上の意見を述べず實に一種不可思議なる政界の豫言者にして世人は切に其豫言を聞くことを樂めども未だ之を耳にするを得ざる故に轉た倍々奥床しき想ひを爲すのみ譬へば咲く前の花、熟らぬ間の實に均しく將軍の擧動は人に美麗完全の胸畫を描かしめて曖昧模糊の中に之を籠絡するものなりと云ふも可なり左れば其口に説く所は共和國の爲めを計り又共和國の同胞を憐むに在りと公言すれども將軍自身は共和政治を攻撃して且つ將軍の擁護者も共和政治の公敵なり或は將軍は表に民主政治を主張して過激なるロシフホール氏の後援あり又ランテルン新聞の聲助ありと雖も國會の候補者として現はるゝに及では少しも民主主義の實を示さず將た將軍の撰擧區民は概ね保守黨なるにも關はらず將軍は之に向て公然帝政の非を説き監督政治の不可を論じて止まざるなり抑も將軍が今日非常の勢力を養ひ得たるはボナパルト黨の後援あるが爲めなれば同黨の投票を買ひ該派の歡心を求むるの其手段には注意大切なる可きに演説に著書に却て之を攻撃するは最も不審に堪へざるなり宗教寺院の事に關しては未だ其主義を公けにせざれども其參謀には過激なるウオルテー派あり又非僧權黨あるに拘はらずして將軍の爲めに多數の投票を與へたるは實に僧侶黨なり或は軍事に關しては將軍は未だ人心を煽動せしむるほどの大演説を爲さざりしも軍人は概ね皆將軍に望を屬し愛國家も亦將軍の政府に立つを希はざるなし此の如く將軍は未だ一種の黨派を表せず又一種の政略をも示さず漠然たる不思議の境遇に立つが故に他の黨派は之に對して駁撃を下すの口實なく恰も風を捕へ影を攫むの姿なるより政敵の多數なるに關せずして其名聲は特に高きを得たる者なり