「ブーランジエー論(前號の續き)」

last updated: 2019-11-24

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時事新報に掲載された「ブーランジエー論(前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

在倫敦 霞岳生寄

將軍は別に門閥家の裔にして其祖先中、國に功勞ありしと云ふに非ず又非常の能辧にして人を敬服せしむるの力あるにも非ず將た財産の點に於ても衣食に窮せざるのみ、其資材の人に擢んでたるを聞かず而して之に加ふるに前顯の如く政黨の首領に非ず將た政略の代表者に非ずとすれば毫も取り所のなき人物なる可きに其名聲斯くも喧しきは畢竟位置の宜きを得たるものならん即ち如何なる反對の新聞紙と雖も日々二三欄は將軍の記事の爲めに填塞せざるなく、其毀譽褒貶は偖置き一日ブーランジエーの名を掲げざる時は讀者は之に滿足せざるの有樣なれば從て將軍の名聲は善となく惡となく唯高き一方あるのみ特に世人は事あるを悦ぶ者なるが故に新聞紙は此好事心に乗じ耳新しき事件を報道するを勤むる際に恰も好し爰にブーランジエーの名あり讀者の爲めには一の奇報にして新聞社の爲めにも亦耳新しき種子なれば其貶すると褒むるとを問はず從て記せば從て其名を高め將軍の出入徃來は内閣大臣若くは大統領よりも人の注意を惹くこと多し就中、將軍の被撰擧區たるノール州に在りては多數民は勿論、其他金力ある者勢力ある者皆な將軍に望を屬して投票せざるはなく特に該地方は保守主義の最も盛なる所にして彼のボナパルト黨の餘〓も概ね此所に潜匿するが故に彼等は將軍を以て機關となし帝政を回復するの考案なること明白なり要するに佛國各地方の不平黨は皆ブーランジエーの題〓を假らんと欲して説を作す其説は都て將軍の爲めに聲援を爲す者の如し共和黨は云く將軍は監督政治に反對するの人なり、帝政を非難するの士なり、行政の權を鞏固にして施政の便を計らんとするの政治家なり、其黨派はボナパルト黨より成ると雖も將軍の心は之を利して共和政治の基礎を固めんとするの考へならん云々と而して帝政黨は之に反して以爲くブーランジエーは今の共和政治を殪して帝政の基礎を作らんとするは疑なし縱令へ彼れ自ら帝政を回復せざるとも其擧動は以て回復の機を促すに足る可し云々とて各皆色眼鏡を以て將軍を視るが故に青紅黒白は視る人次第なること畢竟將軍の政略出沒極まりなきに依る者ならん、將軍が特に巴里市中を彷徨すれば數高の人民喝采歓呼して之を迎ふるの樣は毎々新聞紙上に載する所にして局外より見れば驚くに堪へたるが如くなれども是れも決して怪む可からず即ち世人の知る如く巴里は歐洲の中心にして其人口多きのみならず浮浪遊情の民到る處に徘徊し加ふるに數十萬の外國人は贅澤奢侈の爲めに來遊し悠々日月を消過して何れも皆無事に苦しみ何か事あれかしと思ふ折柄途人の喧嘩、馬車の顛覆など云ふ些細の事にても忽にして一塲の群集を成すの常なれば彼の將軍を途に要して歓呼する者は其年齢十五六歳より十八九歳に至る肉賣パン賣、其他商店の丁稚小僧より老年壮者の無事に苦む者か然らざれば乞食盗賊掏摸の類の市中を徘徊する者共にて五分の四以上を占むべしと云へり盖し何れの國に在りても社會の實權を握る者は中等以上着實の人にして彼の多數の細民は實際これに與らざるの常なればブーランジエーの黨派とても着實派の援なくして政權を握ることは覺束なしと云はざる可からず將軍が通行のとき物珍しげに其跡を追随する連中は中等以上着實の人にはあらで唯是れ無數の細民、無縁の野次馬とも稱す可き者なれば此者等が如何に群集して市中の行列に盛觀を添ふればとて將軍をして政治上の勢力を得せしむるの事實に關してはuする所なかる可し唯巴里の新聞記者が讀者を悦ばしめんとの手段を以て其事を夸大に書立れば世人は悟らずして之に瞞着せらるゝのみ虚心にして考ふれば寧ろ一笑に附す可き事にこそあれ

夫は偖置き將軍を翼贊する機關新聞は第一にランテルンにして其賣口宜きが故に從て勢力も少からず之を外にしてイントランシージヤンはロシフオール氏の機關として同く將軍を翼くといへども其勢力左程著からずと云ふ尚ほ他に公然たる將軍の機關新聞とも云ふべきはコーカルドにして其論雜駁粗放なり外ラフランス、ラゴロアの二新聞も將軍を翼成すれとも其他巴里市中の大小新聞は何れも將軍の適たらざるはなし即ちタム、デバ、フイガロ、レパブリック フランセーズ、ヂヤステス、パルチー、マータン等其主義は共和、過激、保守、帝政、王政たるに論なく何れも將軍に對しては之を罵り之を駁して假す所なけれども既に前にも述べたる如く將軍の記事とあれば善悪を論ぜず一切讀者の悦ぶ所なるを以て各社何れも之を記すと共に將軍の名聲は愈々高きに至りしまでなり(未完)