「政權と貴族 (前號の續き)」

last updated: 2019-10-28

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時事新報に掲載された「政權と貴族 (前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

西洋の貴族が其人爵を世襲にするの故を以て代々上院に出席し重大なる國の政務に與るも自から古來の習慣なれば今さら如何ともす可らざるは當然の勢ならん

なれども然れども他の一方より考ふるに人爵は相傳へて子子孫孫其榮譽を享けて差支なきに相反し賢不肖徳不徳は全く本人一己に限る話なれば賢人の子其父に似ずして謂ゆる不肖なる者比比皆是なるに獨り人爵の一家相傳たるを以て併て議政の權までも相傳たらしめんとするは理に於て許す可らざる次第なり斯く論じ來れば西洋に於て世襲貴族が上院の出席權を世襲にするは不都合至極なるが如くなれども爰に今日までの來歴を尋ぬるに其昔は貴族の一門大小の政權を專にして之を人民に頒たざりしは勿論、一切公私の權力は悉く己れの掌裡に收め生殺與奪も心の儘なる次第にして其甚しきは一國の王者と雖も貴族の跋扈に苦められ爲政の實力は總て其手に渡り王者は虚器を擁するの姿なりしに其間人民も貴族壓制の苛酷なるに不平を鳴らし或は理に訴へ或は力を恃んで貴族の公私權を殺がんとしたるは西史に云ふ民權の運動にして之が爲めには革命内亂、血を流し人を殺したる其顛末慘毒にして聞くに堪へざる者少からず而して今日に至りては私權の爭先づ熄んで法律の眼に公侯庶人の區別なく人は悉く平等に歸したるに相反し公權の不同は全く其跡を收めずして互の軋轢今に依然たるが如くなれども是も往日に較ぶれば貴族は倍倍其公權を奪はれて今も尚ほ失ひつつあるに相違なれけば其結局は公權も私權同樣、平等均一に至る可きは無論の話として彼の英國の貴族が上院出席の權を世襲にするも理の正面より見ればこそ不都合もある者なれ倩倩實際に就て其趣を窺へば貴族は既に其公權の多分を奪はれ昔の餘波に今は獨り上院出席の世襲權を保持するに外ならず我輩は世人が英國貴族政權の不同を論ずるに於て理の一邊より之を責めず暫く今日までの成行を顧みて勘辨あらんことを祈る者なり

右の如く英國の現塲に於ては貴族の政權次第に■(にすい+「咸」)じて今は纔に上院出席の世襲權を有するのみなりと雖も佛國に於ては公權均一の運動最も烈しくして既に第一共和政の亂に貴族は悉く公權を奪はれ甚きは財産を失ひ生命を殞して流離轗軻の其趣、見るに忍ひざる者少からず爾來共和政廢れて或は王政と爲り或は帝政と變じて〓國の革命に社會の秩序も之と共に變化し千八百七十一年今の第三共和政府の起るに及んでは固より公權の不同を許さず國中に貴族の在るを禁して甚だしきは其私有の財産までも官の爲めに籍歿せられ今日の社會に貴族の元素は地を拂て無しと云ふも可なり即ち公權均一の事に就き佛人の運動は英人よりも過激なしりを知る可し之を要するに英國に於ては私權先づ平等に歸して公權尚ほ未だ不同の蹟を斷たざるに相反し佛國の貴族は公權も私權も一切これを奪はれて身を容るるに地なきのみならず其革命は私權平等の爭よりも公權の均一を主眼にしたることなれば爭論先づ政治の部面に發して世は無政と爲り、公の秩序一旦紊れて私の權利其の據る所を失ひ禍亂の國を害したること之を英國に較べて同日の談にあらず畢竟公權均一の運動、劇しきに過ぎて其弊害を被りたるものと云ふ可し

此の如く英國の公權均一は佛國に比して緩慢なる者なりと雖も爰に英國に較べて今に尚ほ其不同の多き者は日耳曼なる可し日耳曼の帝國建立は僅か十七八年の昔にして均一の運動英國の如くに捗取らざるも怪に足らざれども今日までの變遷は姑く論せず唯現在の事相に就て考ふるに普魯西の國王が大小二十六の侯國を併て今の帝國を建てたるは名は聯邦と云ふと雖も實は封建の治を廢して郡縣に爲したるに殊ならず各州の王侯が今に尚ほ公私の特權を有するも是れ唯一部分たるに止まり大體に就て論ずる時は帝國の建立は一種の廢藩置縣たりしが故に爾來中央政府の權力は次第に増して王侯の威勢は日に衰へ若し過激なる革命の破裂もあらば公權の均一佛國の如く一時に起るか將た然らざるも徐徐にして王侯の地位は遂に英國の貴族たるに至る可し今後の成行必ず此の如くならんかと我輩の窃に信ずる所なり且つ日耳曼諸州の王侯は之を王者と云はんよりも寧ろ貴族と稱して當然なるは始めより人の許す所にして近頃は右の侯伯中既に其産を破り家を失ひ零落の境に沈みたるもあれば前途の成行亦推して知る可きのみ                 (未完)