「政權と貴族(前前號の續き)」
このページについて
時事新報に掲載された「政權と貴族(前前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
前前號に述べたる如く權力均一の運動は先づ私權の部に於てして私權漸く一樣を得たるの後、公權尋で平等に至るの趣は英佛獨諸國の例に就て之を見るも容易なれども我國の既往に照すに其理倍倍判然たる可し即ち王政維新の前までは各藩四方に雄據し大名侯伯武士陪臣より百姓町人に至るまで人爵階級の別、幾層級を重ねて權力の不同最も甚しく、下級の人民は獨り公權に與り得ざるのみならず私權すらも之を全うする能はずして時として奇禍に罹ることあるも其曲を伸ばすに道を得ざるが如きは殆んど財産生命の安心なかりし者なり然るに維新の一舉に及んで悉く此不同を矯め俄に西洋文明の法律政治を採用して社會舊來の制度慣行を其根底より一掃し國民一般の私權をして平等に歸せしめたる其變化の迅速なるは實に驚くの外なし隨て人の公權も亦次第に均一の趣を得て昨は一言も國法に喙を容るる能はざる人民が今は政談を口にして憚らざるに止まらず既に府縣の經濟に關しては議政の權を有し或は二十三年には國會も開けて國の法律財政に參議す可しとの事なれば是等の事情を以て西洋諸國に於ける權力均一の運動に較るときは我進歩は實に非常なるものにして斯る短日月の間に公權の平等此の如くなるを得たるは佛國革命の外に其例を見ざる所なる可し千八百七十一年日耳曼帝國の建立も其貴族公權の不同を制したるの功は我明治四年廢藩置縣の成蹟に及ばざるものあるが如し日耳曼に於ては侯伯貴族今に尚ほ地方に據て銘銘不同の公權を弄ぶに相反し我舊諸侯は藩籍奉還の其以來全く政治の縁を離れ單に華族たる人爵の榮に浴するのみにして他に特に公權の出色あるに非ず或は舊藩主藩士の間には尚ほ主從の禮の廢せざる所もあらんなれ共今日佛國などにて舊主家の恢復を圖り身命を抛て先主君の爲めに報効せんとする諸家の臣民に較べては日本の華士族舊君臣の關係は唯道徳上の情誼感覺たるに止まり一切政治上には累を爲さざるものと云ふ可し政府に於て近頃大名華族に舊藩地の歸住を許したる事の如き、若し華族をして政治上に權力ある昔日の如くならしめなば之が爲めに國の統一を妨げ恐る可きの結果あることならんなれども其邊の掛念は總て無用にして既に我輩記者の所見に大名華族の舊藩地歸住を利なりとして毎度切論したるも實は日本に於て貴族公權の不同は今日既に其跡を收めたるを知るが故なり此■((「黒」の舊字体のれんがなし+「占」)+れんが)に於ては今の日本は日耳曼の右に出るのみならず更に英國に對しても大に誇るに足る可し何となれば英國の貴族が入ては代代上院に國事を議し出でては地方に勢力を振ふの例は公權均一の運動未だ日本の如く進まざるを證するに足る者なればなり
僅僅二十年内外の間に公私權力の均一此の如く容易に又此の如く滑かに行はれたるは西洋諸國に多く其例を見ざる所にして更に明治二十三年には彌彌國會も開け人民議政の權を獲るに就ては將來の事は姑く言はず先づ爰に國會ありとすれば其組織は上下の兩院に分れ二局議院相併で國の法律を議することならん或は論者中には日本の國會の一院なることを望む人もあらんかなれども理論は兎も角も凡そ立憲君政の國に在りては兩院を以て國を治むること今日普通の制度にして民主共和の國と雖も純然たる一院を以て立法の府と爲すは我輩の知らざる所なれば我國當路者の考も同く世界普通の式に則り兩院組織の法を立つるに在ることならん斯くて日本の國會は兩院制度なりとして一方の上院は如何なる人にて組織せしむや未だ知る可らずと雖も世人の説く所に從へば日本の上院は例へば英國の如く貴族院の組織と爲すの計畫にして近來新華族の其數を増したるも一は既往の功勞に酬ふるが爲めとは云へ國會の開設後知識經歴の人を上院に交へて下院の權衡を取らしむるの考案なりとも云へり即ち今の舊華族は大名たり公卿たるに論なく概して人事の實に通せざる者多ければ獨り此原素のみにて貴族院を組織す可らざるは無論なるが故に之に加ふるに新華族を以てして以て下院に對して重きを爲んとの意なる可けれども此一段に至ては我輩に於て少しく異見なきを得ず東西國を殊にすれば事情の殊なるものあり若しも之を輕輕に看過し我華族をして上院を組織せしめ而かも其出席權は人爵の榮譽と與に代代私家に傳はること尚ほ英國の如くなるを立憲君政の本領なりと信ずるの人もあらば我輩は斷じて其説の誤れるを辨ぜんとする者なり盖し日本の華族は彼の日耳曼の貴族が地方の侯伯たるを以て聯邦院に議席を占め英國の貴族が殘餘の政權を失はずして代代上院に出席する等の事例とは全く相違反對なれば上院組織の方法に至りても世襲貴族たるが故にとて併て公權をも世襲にするが如き不同不公の跡なからんこと我輩に窃に希望する所なり (未完)