「支那人拒絶 在ボーストン某生」
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時事新報に掲載された「支那人拒絶 在ボーストン某生」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
支那人拒絶 在ボーストン某生
亞米利加合衆國に於ては殊に支那政府と絛約を結んで以後支那人の同國に移住することを禁じたり又近頃英領濠洲に於ても支那人拒絶論頗る盛にして目下現に英國政治家の一問題と爲りたり抑も支那人の斯く世人に忌み嫌はるゝ原因は一にして足らず或は其賃銀安くして他人の業を奪ひ爲めに從來の勞働者を困却せしむる等種々樣々の譯合あるべけれども其重なる原因は日常の擧動風俗全く土人に異にして其國の人民と和親することなく自ら團結衆合して其〓恰も他〓に來て他〓に入らず支那國固有の風俗〓〓を其まゝに存じて他國に持參するものなるが故に自ら人の感〓を傷り何となく人をして厭悪せしむるに因るものゝ如し今試に英米の人に向ひ何故に斯くまで支那人を惡むやと問はば支那人は其生活の度、英米人の如く高からず隨て其賃錢も下直なるが故に之を使役するに至極便利なれども何分其風俗野卑にして其身體〓く其所業不實にして其〓感通せず何となく我輩の氣に叶はざるが故に其移住を拒絶するのみなりと云うことならん或は斯く直言せずして樣々に經〓上又國體上の説杯を附會して表面に公明正大の議論を陳る者もある可しと雖も其心底を叩て之を〓〓するときは必ず前言の外なかる可し之を譬へば彼等の支那人を〓るは尚ほ我輩の家猪を〓るに異ならず之を利用して食物と爲すときは味美にして滋養少なからずと雖も扨之を家内に養ふは誰れしも餘り好まざる所にして放逐の〓止めんと欲して止むべからざるが如し人〓に於て是非なき次第なり之を思へば衣服なり擧動なり其外形を世間人並の風に模し以て交〓親和の道を便にするは國の交際上隨分大切の事と云ふべし
扨右の次第なるが故に此度英領濠洲に於て支那人拒絶論の〓りたるも至極尤なる譯合にて己に米國の如き今日現に其事を實施したる適例もあることなれば一も二もなく斷然其拒絶法を發布して差支なきものゝ如しと雖も夫にては英支兩國間の絛約面に違背する所あるが故に如何に厚顔英政府も之を斷行するに困み何とかして米國政府の例に倣ひ殊更に此拒絶に關する新絛約を締結し首尾よく局を結ばんとせし其際に紐西蘭に於ては支那人の侵入日に盛にして其勢一日も猶豫すべからざる有樣に迫り本國政府の處置を待つに遑あらずして拒絶法を發行したるにぞ英政府の狼狽一方ならず〓〓〓〓〓打捨て置く時は兼ての絛約面に〓〓する〓〓〓〓かれず又紐西蘭〓〓て斷行したる其法律を本國〓〓〓〓〓認可せざる〓〓〓雖も其殖民地と本國との〓〓〓〓〓する〓〓〓〓〓〓〓困難其〓なきにあらざるなり千八百四十二年八月廿九日に締結したる彼の南京絛約の第一絛に曰く今後兩國の交際は互に泰平和親を旨とし兩國の臣民たる者は隨意に互に領分に入ることを得、相互の身體私有を保護して聊かも之を妨害すること勿るべしと又千八百五十八年六月廿六日に締約したる天津絛約の第一絛に曰く南京に於て調印したる千八百四十二年八月二十九日付の絛約面和親泰平の旨は今後とも互に違背あるべからずと又千八百六十年北京絛約の第五絛に曰く千八百五十八年の絛約互に調印〓の上は清帝は直に各州各縣に發令して凡そ支那人の英領に渡航して職を求めんと欲する者には隨意に其渡航を許し敢て之に故障を入るべからずとの旨を諭達すべし云々とあり斯く程明白なる絛約あるをも顧みずして遽に支那人の英領に來るを拒絶するが如きは假令へ英政府と雖も敢て爲すことを得ざるものなり假りに英政府をして絛約の明文に頓着することなく只管自己主義を眼目として斷然此拒絶法を認可して其絛約の明文に違背せしむることあるも固より支那政府が絛約違背の旨を責むるが爲めに海軍を〓して英國に攻入る杯の事は夢にだに出來ざることなれば傍若無人差支なきものゝ如くなれども今其絛約に違背するときは自然英支の間に不和の氣味を生ず可し本來英政府の目的は〓くまでも支那帝國と親睦して露國の南侵を防がんとするものなれば敢て帝國を敬畏するには非ざれども不和は甚だ好まざる所なり是即ち拒絶論が今日英國政治家の一問題となりたる所以なり
抑も支那帝國は其昔鎖國の風にして外人の其國に入るを許さず國民の外國に出るを許さず一國孤立の樣に安じたりしに英國の如きは此鎖國に對して大不服を唱るものにして其説に謂らく凡そ世界に國するものは互に有無を貿易し智識を交換し自由自在に徃來交通して天與の幸〓を享く可し即ち天理人道の約束なり若しも此約束に背く者あるに於ては天人共に許さざる罪人なれば兵力に訴へて之に強迫するも可なりとて恰も道理を先鋒にして兵力を後陣と爲し強いて之れに迫りて國を開かしめ遂に貿易互市の絛約を結びたるものなり然るに今日に至り其絛約の結果として支那人が己れの領分に來りて自由自在の職に就き土人と競爭して之を壓倒する勢あればとて其移住を拒絶せんとするは前後の次第不始末なりと云ふべし前日開國を以て人に迫りたる英人は今日却て鎖國の利を説き多年鎖國を以て自ら安じたる支那人は却て他國に侵入して開國の利を利するとは時勢の變遷と云ふ可きか天理人道の〓復と〓す可きか唯一塲の奇談に附す可きのみ若しも支那國をして充分の兵備あらしめば必ず開國の道理を先鋒にして兵力を後陣と爲し英政府に迫りて開國移住の條約を結ぶことならんと雖ども如何せん國力足らず唯其先鋒のみ有て大事の後陣なきが故に如何なる天理人道も其光を發するに由なく殘念ながら非理非道の處置に服せざるべからず之に依て之を〓れば國の交際には眞正面の理屈は餘り役に立たざるものにて今日は是れ權謀術数にあらざれば無理罷り通る世の中と云ふ可し我日本人の如きも日に月に米國杯へ渡航する者の數〓加して現にカリホルニア州中五千内外の日本人ありと云ふ今日の所にては未だ土人に嫌はるゝ程の所業もなく又其土人に厭はるゝ程の勢力もあらざるが故に放逐拒絶の沙汰をも聞かざれども早晩其期ある可きは誠に以て明白なることなれば今より何とか工風して永年に國の對面を損せざるやう其處置あらんこと吾々が米國に居ながら〓に願ふ所なり