「民育の事(前號の續き) 在倫敦某」
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時事新報に掲載された「民育の事(前號の續き) 在倫敦某」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
去れば人民を〓育することが先づ第一で御坐り升すけれども茲に一の差支と申し升するは何分今の新聞でも又書物でも其陳てある説は誠に容易な議論で有り升すけれども其文章と文字は滅法六ケ敷か御坐り升して或る新聞の〓説杯と申しては丸で漢文を其儘日本文に直したる樣で文選字引を坐右に置き八大家文を丸〓にしたる人でなければ〓め升せん東京で大新聞と申し升するものは何樣な人が之を讀むかと尋ね升するに書生學者役人杯と云ふ侍仲間のみで眞の日本國民には之を讀む人は一人も御坐り升す舞ひ之を讀む人が無いでは無い之を讀ことの出來る人が御坐り升せん〓併或人の説に夫れば其當人の無智文盲なるが其人の不仕合にて外に仕方のない譯で到底其當人に文字を〓ゆる外の手段は無いと申し升すけれども私共の考では決して左樣では御坐り升せん成程其當人の文字を知らないのは誠に宜敷くない事で國中の人が皆學者で能く文字が讀め升したらば之に上超す幸はあり升せんけれども人間の爲すべき事業は實以て澤山の事で一生涯の中に爲し盡す事の出來ない程で有り升すから文字を覺ゆる計りに安〓と〓〓〓〓日を費やして居る遑が有り升せん世が進むこ〓〓〓れに連れて段々と世間の仕事も殖えるもので自〓〓〓〓をする計りでも中々昔の樣な容易な事では有り〓せん自身の口〓が出來れば又一家内の始末も爲さ〓〓〓〓ならず一家内の始末が出來れば村や町内の相談もなしなければならず又時としては全國の仕事にも口を出し世界萬國の事〓をも知らなければなり升せん斯く世話〓世の中に居て役にも立たない文字に骨を折る〓〓〓〓出來がたいことで日本全國の人をして悉く皆文字の〓〓と爲すことは出來ないことだと覺悟をしなければ成り升せん然れば到底百姓町人の目を開て國の仕事に口を容るゝことの出來る樣に爲すことは出來ないかと申すに決して左樣でも有り升せん先づ第一文字文章を〓く〓〓〓〓〓〓〓〓分る樣に〓〓杯で〓て〓〓民育と申〓〓〓〓〓しなければ成り升せん併し或人の〓は文字〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓で〓〓〓〓〓けれども何分〓〓文字では〓〓〓〓〓〓事を書くことも出來〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓用ひなければ〓〓〓〓が無いから〓〓〓ず矢張り六ケ敷き文字を使はなければならんと申し成升すけれ共之は決しからん間違た議論で六ケ敷い文字を用ひなければ思ひの丈けを書くことが出來ないと致し升すれば平生の話は如何致升するが或新聞の〓説の樣な六ケ敷は漢語を用ひなければ通常の話は出來升せんか通常の話に其樣な六ケ敷言葉を使ひ升したらば却て其話が何の事だか分り升すまい何か考て見升しても相對の話には易い言葉にて充分、物を書く時は六ケ敷き言葉を用ひなければ成らないとの理屈は有り升せん又六ケ敷い文字でなければ文章に味が無いと申し升すけれども文章の味杯と申す事は民育には丸で不用の事で此樣な事に氣を使ひ升するから何でも日々〓をする通りに文章を作り升すれば夫れで澤山で御坐り升す其上文章の味と申し升するものは決して文字の難易には依らないもので假名で書き升した文章までも味のあるものは隨分澤山有り升する又近く例へ升すれば彼の話家の圓朝の話を其儘筆記した物を讀升するに其句調と云ひ文句と云ひ實に能く出來て居り升して靑書生の漢語交りの文章より餘程旨味が澤山で御坐り升す左すれば入込だ六ケ敷き政治の議論杯を書き升するにも故ら六ケ敷き文字を用ひたり捻繰た文章を作くるにも及び升す舞ひ私が書た此樣な文章で澤山だと思ひ升す譬へば平らたく私共と書て夫れで澤山の所を無理に我輩、我〓、吾曹杯と六ケ敷く書き升した所が詰り私共と申す意味で別段變つた意味も無い事ですから矢張り平々凡々に私共と申し升した方が宜敷う御坐り升す現に世の中の人が今日我國の文字文章を不都合だと思ふて居り升する證據には世間に假名の會とか羅馬字會とか申す會が御座り升して何分今日の樣では困るに依て何でも其文字と文章を平易にしなければならぬとて學者先生達の工風が色々御座り升すけれども之れとても未だ先の永い事で中々急に行はれる模樣も御座り升せんから夫れは其儘にして置き升して目下の所は今日在來の文字を平らたく用ひ升して成丈け平生の言葉と同じ樣に文章を作くることが肝要で御座り升す斯く申し升したらば其樣な事は百も承知千も合〓聞き度もない讀度もないと云ふ人が御座り升うが固より此一篇の説は左樣な學者先生達に〓せる爲めに書たものでは御座り升せん所謂民と共に事を爲めとの事が私共の目的で御座り升すから詩も作くれなければ漢文も讀めない人が讀でさへ〓るれば夫れで私共の滿足で御座り升す(完)