「相塲所營業の延期」

last updated: 2019-10-28

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時事新報に掲載された「相塲所營業の延期」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

今の世の中を見るに誰れも彼れも忙しき樣子にて無事安閑たる者は甚だ少なく繁忙混雜など云ふ言葉は時時刻刻人の口にし耳にする所にして即ち我輩とても其煩雜中の一人なり斯く世の中に事の煩雜なるあれば自から亦これに應ず可き人才を出して處分を施し太抵は治まりの付くものにして多事多才は人間の常と云ふ可きのみ然るに今この繁忙混雜の由て起る本源を尋れば熱界無數の人が災害を去て幸福を得んとする熱心勉強の表面に現はれたるものより外ならざれども我輩の所見に最も奇にして最も不思議なるは此繁忙混雜なるものが人生尋常の行路に少なくして却て間違より生ずること多きの一事なり耕して食い井を掘て飮むの境界を離れ尚ほ進て物を製造し賣買し、金を貸渡し借用し、人を使用し人に使用せらるる等百般の運動が當局者の豫期し豫言するが如く圓滑に行はるるときは人間世界は至て無事安樂なる可き筈なれども實際に然るを得ずして繁忙混雜なるは人事の齟齬間違に由て起るものと云はざるを得ず此邊より見れば今の社會は是れ齟齬間違の世の中なりと云ふも不可なきが如し人類を稱して理を解するの生物なりと云ひながら此生物の集りたる社會に常に間違の多きは唯不思議なりと云ふの外なし、尚ほ此上にも不思議なるは彼の人才の働を用るに人事尋常の行路は恰も滑に過ぎて力を現はすに足らず偶偶事の間違に逢ふて始めて光を放つものの如し盖し浮世の群衆は目前に功名の光を見て却て其功名を成さしめたる原因をば忘却するものならん奇と云ふ可きのみ秘藏の陶器破れたり之を燒接屋に渡して細工を施し接目に金泥などの光るあれば家人は之を見て見事なりと稱し却て其破れたる所以の間違は之を忘れて唯燒接屋の手際を譽るのみ、或る客が横濱より郵船に乘て神戸に行かんとて東京の旅宿を出發するとき要用の品を失念したるにぞ宿の主人は次ぎの汽車より使の者を以て跡を追ひ其品を屆けんとせしに先方の客も亦丁度之を思出して東京へ引返し途中行違ふて使の用は空しくなりしかども前後の間違に宿の主人も使の者も大に心配して大に勞したりとて使の無効なるにも拘はらず却て一段の謝禮を受ることあり左れば天下の人物が其才力を現はして一世の喝采を博せんとするには所謂盤根錯節とも云ふ可き大間違の入亂れたるものに逢はざれば叶はざることにして其間違のいよいよ入亂るるに從ひ其功名も亦いよいよ盛なるを得べし軍人の功名は戰爭に由て成り代言人の手柄は難訴の勝利に在り人生の豫期する尋常の行路には戰爭も訴訟も生ず可らざる筈なるに間違に由て之を生じたるこそ軍人代言人の仕合にして其功名手柄を成さしめたる由縁なれども天下無數の人は其由縁を問はずして唯目前に功名手柄の燿くを見るのみ人事いよいよ奇なりと云ふ可し

右は我輩が浮世の奇相に就て常に感ずる所なりしが此頃又時事に觸れて益益この感情を切ならしめたるものは彼の有名なるブールスの一條なり我輩は始めよりブールスを好まず在來の會所取引所にして弊害ありとせば其弊害のみを指摘して宜しく改正を加ふべし商人の品位一體に高尚せざる間は新取引所も名のみ改まるに過ぎざれば新舊轉換の際徒らに無益の騷動を惹起すは不可なりと云ひしに我輩の議論は不幸にして行はれず愈愈新條例を發布することとなりしも實際の模樣は中中豫算の如くには非ずして苦情百出意外の困難に逢ひ新取引所の實施にも至らざりしが爾後天上の陰晴定まらざるが爲めに下界の一方に喜ぶものあり一方に憂ふるものあり、喜ぶ者も未だ胸安からず、憂ふる者は戰戰兢兢として中には貧富忽ち地を替へたる者もありしよし斯くて荏苒今日に至り井上伯の新に農商務大臣に任ずるや固く非ブールスの説を執りて此程東京及び大坂名古屋等より其向きの人人を召集し新取引所主張者をして靜に所説を收めしめ從前の株式取引所米商會所共その營業期限を明治二十四年六月まで延ばして殆んど三年間の風波を取鎭め以て商賣社會の安寧を得せしめたるは全く伯の力に由らざるはなし其政治上に老練して然かも活溌頴敏なるは我輩の飽くまでも賛成する所にして功勞の大なるものなれども今一歩を進めて之を見れば彼の三年間の風波は實に平地上の波にして最初より此波さへあらざれば平地は平地にて安寧なる可き筈なるが故に伯の功勞は新に利益を興したるに非ず唯人事の齟齬大間違を整理して舊態に復したるまでの事なり左れば我輩は今回井上伯が其政治上の力を以て盤根錯節を碎きたるの技倆を賛し商賣社會の爲めに其高運を祝すると共に今後は我政治上に斯る盤根錯節を生ずることなくして伯の技倆の無用に屬せんことを祈る者なり即ち我輩は家に在ては陶器を毀たずして燒接の要なきを好み國に在ては地上に波を生せずして整理の勞なきを欲するのみ