「市街撒水の施行方法條項の追加」
このページについて
時事新報に掲載された「市街撒水の施行方法條項の追加」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
市街撒水の施行方法條項の追加
東京市民の撒水に難澁したるや日既に久し人間萬事一利一害は免かる可らざるの約束にして烈風の日に紅塵汚紛の目に入り鼻を打つの患を免かるるは撒水の功能なれども平日風もなき時に撒きちらして行潦泥濘を生じ青天白日の下に雨中の趣を催ほして往來の人を苦しめ人力車は穢れ、車夫の足袋草鞋は損じ易く、職人の輩をして輕便なる麻裏草履を用るを得せしめざるに至りしは撒水法の害と云ふ可し然るに東京府廳にても此邊の害を察したることならん市街撒水の施行方法條項中に左の項を加ふる旨各郡區役所へ通達したるよし
一風塵甚だしき日を除くの外は撒水せざる事
一道路に行潦泥濘を生じ通路の困難を來さざる樣注意する事
一一回の撒水未だ乾かざるに二回の撒水を爲す等の事なからしむる事
とあり我輩の甚だ贊成する所なり抑も此撒水法は本來何の爲めに設けたるものなるや風塵の害を防ぐとて風もなき日に之を施せば風に塵の患を免れて青天に泥濘の難澁を生じ利害相償ふて損するものは撒水の勞役費のみ或は衛生の爲めと云はんか汚塵穢粉の飛揚して人の耳目鼻口に入るの害は其塵粉に水を灌ぎ汚穢の蒸發氣を吸收するの害に異ならず之を喩へば藥劑を粉藥にして服すると煎藥にして飮むとの別あるのみ撒水蒸發の害は煎藥又吸收法と知る可し然かのみならず其水も上水にて足らざれば或は舊城の堀の水を汲み或は下水の稍や目に清くして流るるものを堰溜めて用ることも少なからず其不潔も又甚だし此種の水を以て風塵を防ぐは汚穢を以て汚穢を壓制するものにして畢竟無益と云ふ可し、否な無益に止まらず、醫學に於て彼のバクテリヤの發生するや極めて乾燥したるものにもあらず亦十分に濕ふたるものにもあらずして濕氣將さに乾かんとする其蒸發の時を毒物繁昌の好時節なりと云ふ例へば下水の汚泥その底に在て水に覆はるる間は害を爲すこと割合に少なけれども之を掻廻はして其泥を溝の端に引揚げ日光に照されて蒸發の盛なるときは人の健康を害すること最も甚だしきが如しとのことなれば今晴天の時に半腐敗したる堀の水などを汲取りて之を乾燥したる市街の地に撒きちらし太陽の温氣を以て其蒸發を促すは正しくバクテリヤの發生を媒助するものにして〓〓〓は醫學の眞理に於て爭ふ可らず又市中公共の經濟より論じても撒水は道路を損するものなりと云はざるを得ず東京の市街は大抵皆砂利を固めたるものにして地に粘力あるにあらざれば少しく濕ふときは忽ち崩壞を催ほし雨雪は道路の仇とも云ふ可きほどの次第なるに人爲を以て一年三百六十五日の霖雨を作すが如き其不經濟は多辨を俟たずして明白なる可し
左れば從前の撒水法は之を衛生に訴へ又經濟に問ふも利害相償はずして害の方に餘剩を見るものなれば今回東京府廳にて其施行方法條項中に前記の三箇條を加へたるは能く今日の事情に適したるものと云ふ可し元來事の十分を云へば帝國の首府たる東京の市民が風に苦しめられ歴々たる紳士貴女の衣裳も糞塵に汚さるるとは智惠なきに似たれ共何分にも市中の道路は恰も田舍道の發達したるものにして近來こそ砂利の修繕も大概に行屆たる位の次第なれば獨り撒水法を施すも地盤と不釣合にして効を奏するに足らず東京の市街をして佛京巴里の如くならしめ縱横一面の敷石に凹凸さへなく雨は下水に流れて路に一滴を殘さず二里四方の町町に玉を轉ばしても轉轉止まざるが如き有樣に至りて始めて撒水法も功能を現はす可ければ其時には啻に水を撒くのみならず往來を洒掃して敷石に雜巾掛けも亦可ならんと雖も夫れまでに進むには多分の資金を要することなれば我輩は先づ資金到來の時節を待つ者なり又序ながら我輩の所望を云へば都て公共の事に關して政府の筋にて規則を定るには成る丈け其規則を簡易にして永久に行はれ易からしむるの一事なり人生素と鬼神に非ざれば永久と思ひしものも不都合にして中途に改ることある可し我輩は其改まるを非難せざるのみか之を願ふ者なれども利害疑はしき塲合には寧ろ新規則を設けざるこそ尚ほ願はしけれ、先年その筋の内規か正規か知らざれども東京市中の鳶烏を逐出すとて頻りに之を銃殺しけるに鳶烏は大に驚き一事近國へ退去したれども實に一事の事にして其後銃殺法も止んで鳶烏の安全は舊に異ならず是れも其規則を設る時には何か利害の見る可きものありしや疑なしと雖も之を試みて不利なりしが故に廢したることならん即ち鬼神ならざる人の眼力に利害の分明ならざりしものなれば都て是等の新規則に就き叶ふことならば試みて止むるよりも其前に再三再四思案を運らし遂に思ひ得て之を試みざるは消極の利益大なるものと云ふ可し如何となれば公共の事は假令へ些細の箇條にても關係する所廣くして其試驗中にも手間と金とを損すること多ければなり