「歐人遂に日本に向て行遊列車を發するの日あるべし」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「歐人遂に日本に向て行遊列車を發するの日あるべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

歐人遂に日本に向て行遊列車を發するの日あるべし

去る九月一日佛京巴里より始て中央亞細亞のサマルカンドに臨時汽車を發したる由其模樣は兩處間に或る名所舊跡の漫遊を望む者の便利を計り寢室附の列車を備へ車中專ら快樂を旨とし客をして退屈せしめざるの趣向にて婦人女子たりとも容易に旅行を思立つ可し汽車賃は旅行中の飮食、通辨、汽船、馬車等の諸雜費とも往復合せて五千フランク(金貨一千圓)往復日數は二箇月の豫定にして日數の多き割合には賃錢は安き方なり扨て發車の順序は先づ巴里より墺國の首都ウヰヤナ及び波蘭滅亡後墺國に歸したるクラコウ府並に風景と古跡とを以て有名なるレムバルグ府などを經過して露國の境界に入り同國にて第二のメツカ(元のメツカは有名なるアラビヤの都府にして回回教信者の住處とて名所舊跡甚だ多しといふ)とも云ふべきキー府に進み夫れより南向して黒海の西北岸に在るオデッサ府に達しオデッサより汽船にて黒海を渡り露國黒海艦隊の軍港なるセバストポール府に上陸し此地に一二日を送り各所を見物し次ぎに千八百五十四年の十月廿五日英露兩軍の激戰せし古戰塲なるバラクラバ府にも至るを得べし是れより馬車にて彼の露國詩人の稱賛する山水の秀逸を以て有名なるベイダー溪を通過しヤルタに達す、ヤルタは小都會にしてセバストポール府より西南西を去る卅二マイルの所に在り此間ウオロゾッビラ、リバヂアの市街并にクリミヤの南濱を經過す、ヤルタよりは再び汽船に乘りてコーカシアンの沿岸に或るノボロシツク港に着す此地は世にサジヤカレと呼ぶ所にして見物すべき塲所多ければ之れを巡覽し終りブラヂーカブカス(此地はモスコー、コーカサス間の鐵道の終る所なり)まで汽車にて達し此れよりコーカサスの首府チフリスまでは鐵道の便尚ほ開けざるを以て驛次に因り爰にて一日を費し再たび鐵道にてバークー府に着す此府は裏海の西岸に在りて露國ピートル大帝の世に建設したる二重の城廓と深溝とを以て府外を圍めり夫れより復た汽車にてオーゾンアバに往く同地は即ちトランスカスピヤン線路の合する所にしてゴクランス、テケス及び土耳古人種の住める諸地を過ぎ去りてアスカバツドといへる地に達す其次はマーブにして是れよりオカス河を渡り然る後ち爰に始めてサマルカンドに達すサマルカンドは即ちサイベリアティモール州の首府にして彼の北モスコー府を襲ひ南印度を征し土耳古帝を一戰の下に虜にし遂に支那をも侵略せんと企てたる豪傑帖木兒の根據の地は即ち此府にて今尚ほ其遺墳あり其他斷碑古墟の視るべきもの甚だ多きのみならず殊に氣候温和にして植物に富み其近傍風景の美なるは夙に東洋詩人の稱賛する所たり又此地に至れば次にボクハラ府に遊ぶを得べし同府も亦中央亞細亞の一都府にして美術を以て名あり殊に回回教信者の住む所なり因て右の二府に滯留すること五日間にして歸途に就く由今回の旅行の如きは眼には亞細亞地方の驚く可く喜ぶべき事〓を〓〓ねて又地理學上の智識を弘むる愉快と有益と〓耳の鐵道旅行といふべきなり

右の如く中央亞細亞と歐州との交通はサマルカンド鐵道〓〓の爲め非常の便利を得、巴里市邊の紳士淑女は〓〓行〓の爲めに手を携へて樂車に搭し一聲の汽笛に送られて中央亞細亞の原頭に其遊觀を際むるは文明の快事これに過ぐるものある可らず然るに今日の處にてサマルカンド鐵道の影響は獨り中央亞細亞に其澤を及ぼすのみにして東洋諸國には關係あらずと雖も彼のサイベリヤ鐵道の成るに至らば歐人は臨時汽車を發して東洋諸國に第二のサマルカンド行を試むるや疑ある可らず此時に當り我日本の如きは東洋の一樂園にして山笑ひ水媚びて巴里士女の行遊を迎ふるあるも肝腎なる主公の日本人民にして豫めこれに接するの覺悟なくんば折角の來賓をして失望せしむるなきを期す可らず我輩の遺憾とする所なり唯サイベリヤ鐵道がサマルカンド鐵道の如く成るや成らずやの一事は少しく疑ふべきに似たれども其事に就ては我輩聊か聞知したる所もあれば他日これを記して讀者の參考に供せんと欲するなり