「新法令は必ずしも新利を興さず」
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時事新報に掲載された「新法令は必ずしも新利を興さず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
新法令は必ずしも新利を興さず
一利を興すは一害を除くに如かずと云ふ古人の説は今や既に陳腐に屬して何人も敢て耳を傾くる者なかるべしと雖も我輩は猶ほ其金言として永く通用すべきものたるを信ずる者なり蓋し新たに法令を發布する其主意は樣樣なれども之を要するに利を興すに非ざれば則ち害を除くと云ふに外なかるべし然るに我國にては開國以來一に泰西の文明主義を容れて舊來の弊害を除かんことを勉め民間の西洋論は扨置き政府に於ても一法に次次に又一法を以てし頻りに改良に鋭意なりしは事實に疑もなき所にして其果して目的を貫き得たるや否やは兎も角も凡そ弊害と認むるものに向ては夫れ夫れ相當の處分を施して餘す所なきが如し左れば害を除くと利を興すとの境界は實際甚だ曖昧にして人により二者の伸縮おのおの相異なれども近來に至りて續續法令の發布するは多くは是れ舊弊を除くの目的よりも寧ろ新利を興さんが爲めのものと云ふて可ならんか、然りと雖も政府は如何なる法律規則を發布して日日に奬勵督促するにもせよ其間種種意外の障害もあり又人文民度の如何もありて新法令と新利益と容易に相伴ふ能はずして時に或は却て弊害を釀すに至るもの多きは之を古例に照して明白なるのみか近事に於ても見る可きものなきに非ず然るに今その弊害を見るにも拘はらず猶ほ新法令の發布止む能はざるは何故ぞや我輩は之を人間の怠惰心に歸せんとするものなり抑も事をなすの意向に積極消極の二類ありて積極は其勢常に強く消極は其力常に弱し例へば一家の内にても是れより生計の度を高くすべしと云ふの際には別に苦情を唱ふる者もなくして動議立どころに行はるれども今より下りて之を低くすべしと云へば一同、心に困難を感じて一日一日と遷延躊躇するは人人の思ひ當る所ならん又或は戰爭の際に進んで攻むべしとの議論は將士の賛成を得易きことなれども退いて守らんと云ふに至りては其軍略に出づる時の外は常に論勢の微弱なるを知るべし其他書生社會に於て見る如く一は酒を飮み肉を喰ふべしと主張し一は節儉主義に從ふて暫らく見合はすべしと抗論する其論鋒の勢力は彼是著るしき相違ありて人事の十中七八は殆んど積極の運動に支配せらるるものの如し飜て夫の法令を發布する當局者の心事を察するに例へば遞信にても農商務にても今この法令を發布するときは何何の弊害を矯めて何何の利益を興すに足るべしとて積極の運動止む能はざるより其心自ら鋭敏にして想像の中にもありありと新利を寫出し非常の熱心を以て其所思を貫かんと欲して遂に法文を草し之を衆議に付する塲合と爲りて扨これを評議する者は消極的に否决するの熱心甚だ薄弱にして新法令は新利を見るに覺束なしと知りつつも目下に差迫りたる痛痒もあらざれば先づ以て當局者の議論に從ひ平穩に之を可决して忽ち世上に發布するが如き事情なる可し斯る事情に成りたる法令に就き爾來世上に物論を生じて政府に於ても漸く注意を催ほし始めて前の法令を實施せし不都合を明にしたるは是れまでも其實例なきにあらず夫のブールス條例の如き蠶絲業組合準則の如き皆是れ當局者が除弊興利の幻影を目前にありありと認め他の評議員が條例の〓〓を案ずること左程に切ならざりしが故なりと云はざるを得ず事情此の如きに非ずんば如何にして彼の如く興利的法令の續出することある可けんや當局者の熱心は左ることながら他の評議員の幾分か漫然たるが如きに至りては我輩は少しく不平なきを得ず假令へ人類の怠惰心免れ難き所なるにもせよ既に法令を發布する上は實際當局者も評議員も皆その責を同ふすべき筈なるが故に當局者と同一の熱心を以て公平の見解を下し深く永遠の利害を計較し一利を興すは一害を除くに如かずと覺悟して新利を求むるに汲汲たらざらんこと我輩の祈る所なり