「國會奇談(昨日の續) 筑陽生寄稿」
このページについて
時事新報に掲載された「國會奇談(昨日の續) 筑陽生寄稿」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
國會奇談(昨日の續) 筑陽生寄稿
昨日の紙上にも記したる如く普漏西の國會は恰も書生一塲の討論會に殊ならずして二十年來囂囂嘖嘖徒に紛擾を累ねたるは苦苦しき次第と云ふ可し即ち虚心にして考ふれば無論賛成の事柄なれども官民互の意地づくにて左右に分れ怒眼裂■(くちへん+「此」)の狂態を裝ふて相爭ふは毎度の話にして政治家の苦心は傍人の想ひ到らざる所なるに疑あるべからず普國に於て丁抹の戰爭を終り有名なるキールの港を得これに軍港を築て且つ艦隊を作らんと欲し政府は一千萬ターレル(一ターレルは金貨凡そ七十五錢)の支出を國會に求めたるに國會は其事の要用を認めながらも豫てビスマルクの内閣には聊かたりとも餘計の金錢を投す可らずとの考より大多數にて原案を否决したり然るに政府は國家の不同意にも拘はらずして其案を斷行し甚しきは議員に一應の下問もなくロエンベルク侯國の所有權を墺國より買取り翌年度の國會に其事を報告して費用の支出を促したるに國會は是に至りて承諾せず更に政府の處置を無効なりと攻撃し其論頗る囂然たればビスマルクは躬ら議塲に臨み議院が斯くまでに不平を唱ふるは抑も抑も正當の範圍を失したる所業にして憲法上王室の特權に對し凌轢を加へたる者と云はざる可らず憲法に基て政府より與へたる言論自由の區域を守らず恣に政府に反對するは畏れ多くも國王陛下の威稜を犯す罪責なりとて散散に罵りたるより議員は概むね憤懣してますます反對を試み復た如何ともすべからざるの勢なれば政府は將に國會解散の命を下さんとしたり時正に千八百六十六年六月初旬の事にして此月七日午後五時ごろビスマルクは例の如く宮廷に參内し陛下に國家の事を奏し終て單身ウヰルヘルム、ストラツセ街の官宅に歸らんとしてリンデン公園の前(恰も露國大使館の側なりと云ふ)まで來りし時何者とも知れず小蔭より二發の砲彈をビスマルクに向けて放射したり驚て見返れば年の齡は二十前後とも覺しき少年が六發込めのピストルを隻手に握り狙を附けて後彈を放たんとする處なればビスマルクは夫れと目懸けて一散に飛掛り右手に少年の手を捉らへ左手に其咽喉を押へながらピストルを捻取らんとしたれども少年は爰ぞ大事と力を込めて暫く押合ふ隙を伺ひ又も三發を續けざまに放ちたり一發は外れたれども他の二發はビスマルクの胸先きと肩とに中り急所には懸らざりしも蹌踉き眩んで既に組伏せられんとしたるに大膽なる偉丈夫の事なれば再び起て少年に掴掛り難なく彼を捕へたるが此時までは一人の援兵なく特に兇器の爭なれば寄附く者とては一名もあらざりしに既にして一隊の近衛軍が軍歌を謠ひ公園の方より來れるあり僥倖なりと兇人を兵隊に渡し侯自身は負傷を耐へながら辛くも自宅に着きたるよし刺客の名はヘルヂナンド、コーヘン とて年紀漸く二十一歳の書生なり曩に南方日耳曼に在りて農學を修め後又實地に耕作を務めて稼穡に餘念なかりしに適適時勢に感じて政治の改良に熱中し農事の暇に國事を談じて共和主義を世に弘めんとしたる折柄ビスマルクが壓制の政を施き〓〓を蔑にして到らざる所なきを憤ふり一發の下に彼を殪して自ら自由の犧牲たらんと欲し事のこれに及びたる者なりと云ふ〓て〓る二日〓して議院解散の命出でたり云云右は普漏西議院に關する紛擾中の一話にして其〓これに類する奇談凶變多しと雖も要するに政府黨と民間黨との軋轢より熱に熱を加へて事の爰に至るものに外ならざる可し英國は之に反して政黨内閣の組織を成し自由黨と云ひ保守黨と稱して互に旗幟を樹つれども議論正正堂堂にして普漏西の議院の如く塲中讒謗の空氣を以て充滿するの比に非ず特に政權の授受は圓滑にして去る者も惜まず代る者も熱せず徐ろに事を處して秩序の整然たるは他國に其例あらざれば日本人が國會後の有樣を想像するに當りても必ず先づ模範を英國に取りグラツドストーンは野に下りてソウルスベリーが之に代ると一般なる内閣の更迭を我國の政治社會に期する者もある可し果して所記の如くならば妙なりと雖も元來政治社會の事は工藝器械に反して他國の制度を其儘に移す能はざる次第もあれば完全なる英國の議院政治を日本に傳へて能く其本體を傷けざるを得べきや如何我輩の窃に疑ふ所なり特に英國の議院と雖も初めより今日の如く完全なりしに非ずして數百年の間種種多樣の變化を累ねたるは歴史に照して疑もなき事實なり乞ふ次に之を證せん (未完)